信号が赤になった。

車が止まった瞬間、窓の外に自分の顔が現れた。視界に2つの自分の顔。車窓に薄く映る顔と、ビルの壁面を埋め尽くす顔と。

新作香水の広告だった。柔らかく波打つ黒髪。知性と親しみやすさを絶妙な配分で混ぜ合わせた笑顔。カメラマンが「完璧です」と叫んだ日の撮影だったと、ぼんやりと思い出す。『完璧』って、笑える。

横断歩道を渡りかけた若い女が立ち止まり、スマートフォンを向けた。隣の友人も倣う。聞こえないが口の動きで分かる。本山千晴だ、と言っている。絵に描いたかのようなブレイク。ステレオタイプな人気絶頂。

だが、何もなかった。

胸の中を探っても、喜びも誇りも照れも出てこない。あの顔は私のものであるはずなのに、ガラス越しに眺めていると遠い他人の顔のようだ。もしあの広告が今夜この瞬間に剥がれ落ちたとして、私は何かを失うだろうか。答えが出てこなかった。答えが出てこないこと自体には、もう驚かなくなった。

信号が青に変わる。巨大な自分の顔が後方へ流れて消えた。マネージャーの話もいつの間にか終わっていた。車内に静寂が落ちる。

バッグに手を入れ、文庫本を取り出した。今話題のクライムサスペンス。癖だった。疲れた夜は本を読む。それだけが1日の終わりにルーティンとなっていた。少なくとも、ずっとそのはずだった。

ページを開く。

文字が滑る。目が行を追っているのに、意味が頭の奥まで届かない。見知らぬ言語を眺めているみたいに、同じ1行を3度読んだ。3度とも、何も残らなかった。脳が理解を拒むかのように。

最近はこんなことばかりだった。本を開いても文章が全く頭に入らない。ただ文字が滑り落ちていくだけ。もう家にどれだけ、買ったけれども読んでいない本が積まれているかすらも分からなかった。

最初は疲れのせいだと思った。撮影スケジュールが詰まっていたから。睡眠が足りていないから。脳のリソースが枯渇しているから。

でも休んだ日も同じだった。

温かいコーヒーを淹れて、好きだった作家の本を開いて、読もうとして、読めなかった。読めなかった、というより、入っていかなかった。文字は目の上を滑って、意味を置き去りにして、どこかへ消えていく。扉を叩いているのに、誰も出てこない感じ。いや、扉がどこにあるかも分からなくなっている感じ。

本を閉じた。これ以上粘っても読める気がしなかった。窓の外を街の灯りが流れていく。

目を閉じる。

 

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