はじめに――心の炎を絶やさないために

定年を迎えたあと、多くの人が思いがけない空白の前で立ち止まる。長年続いてきた仕事の日々が終わり、時間は急にたっぷりと与えられる。けれど、その時間をどう使えばよいのか分からない。

朝、目が覚めても行く場所がない。誰にも必要とされていないような気がして、心のどこかが、静かにしぼんでいく──。そんな孤独を感じる人は、決して少なくない。

そして、この「空白への恐怖」は、定年を間近に控えた人たちだけのものではない。日々忙しく働く二〇代、三〇代の人々が抱く「将来への漠然とした不安」の正体も、根底ではこれと同じではないだろうか。つまり、「社会から外れたとき、自分には何が残るのか」という問いである。

最初のうちは、趣味に打ち込んだり、旅行に出かけたりして、空いた時間を埋めようとする。しかし、それも次第に続かなくなる。特別な予定のない日が増え、何となく毎日をやり過ごすうちに、気づけば一週間、そして一か月が過ぎていく。「自分の人生は、このまま終わっていくのだろうか」。ふと、そんな思いが胸をよぎることもあるかもしれない。

こうした感覚は、個人の気持ちの問題だけで生じるものではない。その背後には、私たちが生きている社会の現実がある。

年齢を理由に仕事の機会を閉ざされる。健康で経験やスキルが十分にあっても、数字だけで選考の対象から外されてしまうことがある。働きたいと思っても働けない──。そうした明白な年齢差別が、再び挑戦しようとする意欲を、静かに削いでいく。

さらに、年金の国際比較を行うマーサーの調査によれば、日本の年金水準は世界的に見ても驚くほど低い。社会保障が充実しているヨーロッパ諸国はもちろん、定年制を廃止した国々と比べても見劣りする。

この現実を前にすれば、「貯金を減らさず、慎ましく生きるしかない」と考えてしまうのも無理はない。

もちろん、生活の基盤を守ることは欠かせない。しかし、節約して「ただ生き延びる」ことだけが目的になれば、人生は守られても、満たされはしない。

だが──本当に、それでよいのだろうか。

六五歳の平均余命は、なお二〇年前後ある1。それは決して短い時間ではない。その歳月を、ただやり過ごすだけでよいのだろうか。

人の体も心も、置かれた環境に応じて変化していく。何もせずにいれば、筋肉が衰えていくように、心も静かに萎えていく。感動や喜びを覚える機会が減り、心が弾まなくなる。やがて、無関心や憂鬱が日常を覆うようになる。そうした状態で人生を終えたとき、悔いは残らないだろうか。