クンシラン
♫『アイノカタチ』(MISIA)
物置になってしまっている温室の中で、君子蘭が今日咲いた。南アフリカ原産のヒガンバナ科の多年草で、花言葉は「高貴」である。艶やかな濃緑色の長い舌状の葉の間から太い茎を伸ばした先に、橙色の筒状花が開く。
咲く直前の、蕾が膨らんだ時が、可愛らしい。形もさることながら、色が魅惑的だ。
その日、昼食に寄ったファミリーレストランのデザートのメニューに並んでいた、マスクメロンのサンデーとパルフェの写真が、その蕾の色合いだった。果肉の部分の優しい黄緑色と、種とワタの部分のソフトなオレンジ色。マスクメロンにはじゃ香のような高貴な香りがあり、香りと甘みと食感に気品があり、果汁は余韻に富んでいる。
ロンドンでのある食事のマスクメロンの余韻は、一人の男性の言葉と共に今も残っている。忘れ難い夕食だった。M子さんと私はヒースロー空港に近いホテルに泊まっていた。初冬のあの日、夕日が沈むとすぐ、迎えの黒いリムジンが、ホテルの玄関に横付けされた。
ロンドンの中心にある瀟洒(しょうしゃ)なイタリアンレストランで、私達二人はリムジンから降りた。中で待っていたのは、アメリカのエレベーター会社の社長だった。『ローマの休日』で新聞記者を演じた、グレゴリー・ペックの兄弟、と言われても、少しも疑わないだろう容貌の紳士だった。
白いタイルの内装のコージーな店内には、静かな音楽が流れている。前菜のマスクメロンが運ばれる。生ハムがゆるく巻いてある。「お酒をかけますか?」タキシードのウエイターが聞く。ポートワインだったか、シェリー酒だったか、記憶にない。私だけが、「ノウ」と答えた。ハンサムな社長が言う。「あなたは多くを失っている」
お酒を振りかけた方が美味なのに、勿体ない、という意味の、「多くを失う」という英語が、五十年経った今も、私の脳裏で揺らめく。次にカキが出てきたのは覚えているが、メインの料理とデザートが何だったかは、思い出せない。その紳士となぜ食事をしたのかは、次回書くことになるだろう。
さて、我が家の君子蘭は開花して、橙色になった。この花が似合う歌手はノーブルな雰囲気のミーシャだと思う。丁寧に彼女は歌うから、どの曲も気品がある。『アイノカタチ』に決めたのは、MVの衣装の一部が君子蘭の花の色だったからである。(令和七年五月二十日)
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