【前回記事を読む】小瓶のビールを開け、綿棒に含ませた。「あなた、少しだけ」——病に倒れた夫は、わずかに口を動かした。そして家族が見守る中…

第2章 置き忘れた思いを探して(下川和子から)

北川鈴子は、続けた。

「私は近くで料理店を切り盛りしていて忙しいですし、母親のお世話は親族の者は誰も協力してくれないのです。ですから、自分で身の回りのことができなかったら、病院か施設に入れたいんです」

「──ああ、そうだったんですね。ところで、本人はどうなんですか?」

「本人は、ずっと家に居たいと言っています」

「そうですよね。8年ほど前でしたかね」

「いえ、7年前です」

「お父様が工事を遺言でされて作られた部屋ですからね」

「はい。でも帰ってきたのは、この半年前なんです。それまでは鹿児島の元実家に一人で住んでいました。乳がんがひどくなって、こちらに引っ越してきたんです」

「そうなんですか。お母さんが戻られて、娘さんを頼られたのですね」

「本当にわがままな母です。私が最も大事な時期に飛び出て、どんなに私は苦しかったか。見捨てた子どものところに今頃よく戻れたものです」

「はあ……」とだけ伊吹は答えた。

棟梁と言われた大物も、口頭だけの話ならば経緯は知らないけれど、全く違うストーリーになるものだと、改めて伊吹は感じた。

人生とはこういうものだ。自分の場合はどうなんだろう──。少なくとも本音を全て伝えたいという気持ちはある。

しかし、それを法律的に有効な文章にまでするとなると、様々な抵抗もあるだろうと思う。

「いかんいかん。私は医師の仕事だけ全うしよう」そう考えた。

初回の訪問日となった。

真鍋紗季医師と一緒に伺った。

下川和子は、見るからに気位の高さを感じさせる姿振る舞いであった。

「病気についてお聞きになっているんですか?」と伊吹が尋ねた。

「聞いてますよ。もう手の施しようがないのですね。服に血がつくのが嫌でね。血が止まらず、だらだら出るんです」

「そうなんですか。もしよかったら、みさせてください」

「いいですけれど」