香山房子が手際よくバイタルをとる。「血圧99/68、脈拍88、SpO294%、体温36.9℃です」。伊吹と真鍋は代わる代わるで、聴診器を背部に当てる。
湿った、吐く息に合わせて鳴る音。痰が落ち込む、誤嚥性肺炎の音だ。真鍋先生どうでしょうか?と問いかけたが、返事を待たずに続けた。
伊吹は、「右下肺野背側に粗いラ音(coarse crackles)と湿性ラ音を聴取」と声に発しながら、在宅でも書ける電子カルテに書き始め、続いて嚥下反射低下と臨床経過を併せ、誤嚥性肺炎と診断すると記載した。
「誤嚥性肺炎だと思います」と再度、伊吹が告げると、菜穂子はうなだれて言った。
「食事は少ないですが、むせてはいないんです……」
伊吹は「食べ物だけじゃないんです。パーキンソン病では、唾液が静かに気管に落ちていくことが多いのです。動きが鈍る時間帯に、ゆっくり起こる肺炎です」
頷きが、小さく二度あった。
「在宅でも胸のレントゲンは撮れます。炎症の指標(CRP)も確認して、抗菌薬で様子を見ましょう。看護の回数は……?」
「訪問看護は週2回、口腔ケアもお願いしています。デイサービスは嫌がるので」
「口の中、見せてください」舌の表面に黒い苔(こけ)が厚く貼りついていた。手袋をした指を口に入れ、舌の苔をそっと剥がすと、驚くほど大きな塊が取れた。薄紅の舌が戻る。
「……出ましたね」
菜穂子はきちんとした性格だが、夫の口腔ケアについての医学的知識と医療的ケアについては、あまり知らないようだ。いや夫の口の中を見ることに少し抵抗があるのかもしれない。なぜだろう。ひょっとして夫の口腔ケアをしたくないのかな。改めて考えた。
菜穂子はきちんとした性格だが、新しいことを受け入れることはなかなかできない。しかしこれほどべっとりした痰の変化したものがついてしまうまで気づかないことがあるのだろうか?
少なくとも見たいという気持ちはないのかもしれない。夫婦の関係性はどのようなものだったのだろう。
少なくとも夫が精神的に弱ってきた時期から、言葉の暴力を受けていたことは間違いなかっただろうなと伊吹は思った。
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