【前回記事を読む】医者が感じた喉の違和感…「もう俺は、長くはないかもしれん」。だが、それを口に出すことはできなかった。その理由は…
第1章 思い出された夫婦愛(藤崎 誠から)
門柱の表札に『藤崎』とある。おそらく30坪ほどの自宅だろう。門にあるベルを診療所訪問診療同行看護師の香山房子が押すと、ピンポンという音が聞こえる。「はい」という声がある。
「いぶきまこと診療所です」と声をかけると、戸の向こうからかすかな「どうぞ」という声が聞こえた。
細い通路に沿って、手すりが隙間なくつけられており、藤崎誠が、この手すりを持ちながら移動し外出していたのだろう。
今まで診療所受診に、妻の藤崎菜穂子と一緒に車で来てくれていたのだなと伊吹は考えた。剪定されたイヌマキの生垣、角に積まれた古い石。華やかさはないが、手入れが行き届いている。
そこにある形を見て、伊吹は、なぜか藤崎誠が中心の家庭というよりも妻の菜穂子が中心として作られているように感じた。——この家での藤崎菜穂子がしっかりと浮かび出されている。
藤崎誠は外来では、自分の妻である藤崎菜穂子をこいつ呼ばわりしていて、菜穂子はおとなしく何も外来では語らない家庭婦人かなと思っていた。
伊吹は、おそらく居宅訪問診療を選ぶより、入院と施設に落ち着くイメージを持っていた。しかしここで見た姿は、居宅の在宅医療と看護を、菜穂子は受け入れる覚悟がある、ということではないか。
ふと見ると、往診バッグを持つ香山房子が先に歩き、真鍋が続き、最後尾で伊吹がゆっくり靴の砂を落とす。玄関のドアでどうぞと凛々しく菜穂子が待っていた。
藤崎誠は、ベッドで横向きになっていた。パソコン椅子は窓辺に押しやられ、モニターの黒い画面が昼の光を跳ね返している。
誠は、病状が進行してからも、コンピューターでインターネットを利用して世界を飛び回っていると自慢げに外来で話してくれていたことを伊吹は思い出した。
これがそのパソコンか。ここで藤崎は、最後まで「自分の時間」を守ろうとしてきたのだとわかった。
「今日は真鍋先生と一緒です。これからは二人体制で見ていきます」
伊吹が言うと、台所から妻の菜穂子が顔を出した。菜穂子はよろしくお願いしますとはすぐには言わず、次の言葉を発した。「外来の頃から先生にお願いしていて……寂しくなりますね」
早くも菜穂子は言外の意味を読み取ったようだ。——医師の交代。伊吹は微笑みで返しつつ、胸の奥で言葉を飲み込んだ。自分の病のことは、まだ誰にも言っていない。
「僕も歳を取ってきましたからね」。伊吹は言葉を返した。