【前回の記事を読む】首筋の皺も、腹の手術痕も…四十女を愛しく感じる自分が信じられない。——彼女は週末になると…
劉生 ―秋―
だって、本当にそのとおりだもの。捨てたことになるのだもの。子供たちには大人の事情なんて関係ないでしょう。
松嶋先生はひたすら己を責める。そんな様子を間近で見ていると、俺は心底腹立たしくなる。
一番責められるべきは、妻の身体に痕が残らないよう、残っても人から気づかれぬよう、狡猾に暴力を振るうあの猪首(いくび)の小男ではないか。
そしてうすうす感づいてはいながら知らぬふりを決め込んで、いざとなると息子側に付く老獪な舅と姑ではないか。
家を出た当初、先生は離婚を考えていたようだが、今はどうだろうか……。
第二子出産を機に教職を辞めて専業主婦になったこと、実父は認知症で施設にいること、この春から再就職した学習塾の給料の額、そういったことを考えると、親権を争っても今のところ勝ち目はないらしい。先生は子供を諦めなければあの男と別れられないのだ。
しかもここにきて、夫から帰ってこいという誘いを再三受けている。先週末は姑が乗り込んできた。
私が若い頃のおじいちゃんの暴力はあんなものじゃなかった。息子のは暴力のうちに入らない。あんたは顔を腫らしたり、怪我をしたことはないだろう。
辛抱が足りないのだ。子供を見捨てるなど、もっての外だ。私はおじいちゃんから性病までうつされて苦しんだ。そう言って先生を掻き口説いたという。今、いったんは別れを決意した先生の心が揺らいでいる……。
「母親に見捨てられたって子供はちゃんと育つさ。俺がいい見本じゃないか。七つで母親が突然いなくなった妹だって、今は結婚して赤ん坊までいるぜ。普通に母親してるよ。だから、まずは自分の命を守ることが大切なんだ」
「命を守るなんて、大袈裟な」
「でも家を飛び出たときは限界だったって言ったじゃないか! 精神的にも肉体的にも、限界だったって!」
「ねえ、まだこんな薄い肌掛けで寝てるの?」
この話題になると先生は俺と議論しようとしない。家庭を持ったこともない若い男になにがわかるか、といった顔になる。俺も子供と張り合うような愚かな真似はしない。勝ち目がないのはわかっているから。
「面倒なんだよ、布団を買いに行くのが。フリースを着て寝てるから、まだこれで十分なんだ」
「布団ならうちに何枚も余っているから、持ってくるね」
「いいよ、そんなこと」
「ううん、持ってくる」
「いいよ」
「でも持ってくる。ただし真夜中にこっそりと」
「なんで?」
先生はすいっとベッドを抜け出て床のワンピースを羽織り、散らばった下着を素早く掻き集めた。洗面所の方へ歩いていく。俺の視線の届かないところで身支度を整えるのだ。布団を抜け出すときのこの素早い動きにはいつも感心させられる。余韻もなにもあったものではない。