【前回の記事を読む】何度も夜を共にした先生は、妹が卒業した中学の元教師だ。しかも家庭の事情まで筒抜け——「妹さんのことなら知っているわ」と……
劉生 ―秋―
「……」
「ねえ、良知先生。妹さんは妹さんなりに、お母様のことと真剣に向き合っていたんじゃないかしら。自分で納得できる答えが欲しかったんでしょう、きっと。その答えが得られたかどうかはわからないけれど、戻ってきたお母様を、覚悟を持って受け入れたのはたしかだわ」。
俺がベッドから立ち上がると、先生は話すのを止めた。きっと俺が気分を害したと思ったのだろう。
カーテンの隙間から表通りへと続く薄暗い私道を見る。誰もいない。
先生が見たという女は、本当に婚家の差し向けた人間なのだろうか? だとしたら、いったいなにを探ろうとしているのか? 先生の暮らしぶり? 子供が毎週末やってくるのだから、おおよそのことは想像がつくはずだ。それとも男? 先生の男ならここにいる。
「俺がどんなときに自由を感じるか、わかる?」松嶋先生は黙っている。
「俺はその気になれば悪いこともできる。思いっきり残忍にもなれる。そういう確信を持っている。こうしようと思えばなんの躊躇いもなくできるなって考えながら、あえてそれをしない。というか、気まぐれにそれをしない。そういうとき、俺はとてつもなく自由だと感じるんだ」
電信柱の陰から黒い人影が枝分かれした。女だ。
「こういう言葉で、相手は安心したり喜んだりするだろうな、と思うときがある。口にしようと思えば簡単にできる。でも口にしない。なにも意地が悪くて黙っているわけじゃない。逆に口にしたとして、けっして優しいからじゃない。
そうすることに理由があれば、その理由に自分は縛られていることになる。そうじゃないんだ。ほんの気まぐれに、そうすることを選んだり、しないことを選んだりする」
女はいつから路地で張っていたのだろう。松嶋先生が玄関を出て、外廊下を二階へ上がっていくところを見ていたのだろうか。
「こいつ、殴ってやろうか、と思って、殴らない。でも俺は、自分が相手をやすやすと殴れることを知っている。同時に、殴らずに済ますことも簡単にできる。そんなとき、誰に向かってというのではないが、ざまぁみやがれって気分になるんだ。
どちらかにするか、瞬間、瞬間で、すべて自分に委ねられている。なにか守るべき規範や良心の声があるわけじゃない。それが俺にとっての、最高の自由だよ」
女はロングブーツを履いている。あれは違うな。ロングブーツを履いた探偵というのはいないだろうな、きっと。
着脱に時間がかかる靴、走れない靴を探偵事務所のスタッフが履くか?……いや、勝手に決めつけない方がいい。先入観は危険だ。
第一、俺は今どきの興信所についてほとんどなにも知らない。人手不足で、主婦をパートで雇っているかもしれないじゃないか。家を飛び出して実家に出戻った人妻の身辺を探るくらいは、パートで十分だ。