あたしは見てはいけないものを見たような気がして、カンパリソーダの長いグラスに視線を落とした。佳香さんは押し黙ったままだ。と、いきなりロックグラスの下になっていた紙のコースターを取り、裏返した。

カウンターの上のボールペンを手に取って走り書きする。書いているのは、住所だ! やった! とあたしは心の中で叫んだ。

「はい、これ」

「ありがとうございます! さっきも言ったように……」

「もうすぐ出ていくからね、劉生は」

「え?」

「わたしが追い出すの。あいつ、女がいるみたい」

「……」

「美津子さんじゃないわよ」勘の鋭い人だ。

「彼女はもうすっかり過去の人だもの」

「それじゃ、誰なんですか?」

「知らないわよ。訊く気もないし。とにかく、出て行ってもらうことにしたの。だからこの住所には、せいぜい今月いっぱいくらいしか劉生はいないわ。引っ越し先は…… たぶん教えてくれないだろうな」にやりと笑う。

無駄足だったわけだ。あたしは渡されたコースターを見た。北区王子……行ったことがない街だけれど、これからも行くことはないだろう。

おにいちゃんは今度はどこへ引っ越すというのだろう。次の女のところへか。これじゃ女から女へ渡り歩くドンファンじゃないか。

「わたしの妹はね、五年前に殺されたの」

「え?」

「うちはね、殺人事件の被害者遺族なの」

思わず肩がいかる。佳香さんの表情が一変したように、今のあたしも人から見るといきなり鎧を着たみたいに見えるのだろうか……。

「高校二年生だったのよ。背はあなたくらいで、姉のわたしが見ても、本当に可愛い子だった。自宅まであと数十メートルってところで、車の中に引きずり込まれて、多摩川の河川敷まで連れて行かれたの。そこでレイプされたあと殺された」

この人はなんでいきなりこんな話を始めたのだろう。

「妹は河川敷の草むらの上で土下座して、どうぞ命だけは助けてくださいって犯人にお願いしたんだって。うちは父子家庭で、お父さんとお姉さんがいる。自分がここで死んだら、二人がどんなに悲しむか想像もつかない。誰にも言わない、あなたたちのことは絶対秘密にしておくから、どうか命だけは助けてくださいって」

次回更新は5月1日(金)、20時の予定です。

 

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「あなたの母親に赤ん坊を殺された奥さん、今だに引きこもりがちだって知ってた?被害者遺族の会で一緒なの。」

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