【前回の記事を読む】兄を探す為だけに「夜の世界」に足を踏み入れた——「面接の子?」と声をかけられ、店の中へ入ると…

優子 ―夏―

「早い時間ならお客さんはいないと思ってたのに、本当にすみません」

「ああ、いいのよ。若旦那は特別なの。昼の三時には仕事終わっちゃう人だから。それにわたしのお客じゃないしね」

意外に屈託のない話し方であたしに座るように促すと、自分も隣に座り、長い手を伸ばした。

「ちょっと、あそこの神林さんのバランタインで一杯作って」

バーテンの男性に命令する。こういうお店は経営者の次に偉いのはホステスさんなのだろうか。佳香さんの身体からは意外なことに香水の匂いがまったくしなかった。

正面から見たのより横顔の方がずっといい。これもまた意外なことだが、こんなに色っぽいのに、なんだか男の人といるみたいな感じがした。

「あの、あたし保育所に子供を預けていて、あんまり時間がないので単刀直入にお願いするのですが……」

「何時に迎えに行くって言ってあるの?」

「え?」

「何時にお迎え?」

「ええっと、遅くとも八時半までには必ず迎えに行くって言ってあります」

「お住まいは劉生の実家の近く?」

「ええ、歩ける距離です」

「だったらそんなに急ぐことないじゃないの」

長い脚を組み替えて、佳香さんはロックグラスを手に取った。「ミックスナッツも頂戴、若旦那の付けでいいから」

「はい」

ああ、なんと気持ちいいまでに主従のはっきりした世界! あたしも一度でいいからこんなふうに低い声で男の人に命令してみたい。佳香さんは貧乏ゆすりをしながら黙っている。貧乏ゆすりがこんなにかっこよく見えるなんて。

「あのぅ、兄といっしょに暮らしてらっしゃるのでしょう? 住所だけでも教えていただけませんか? あたし、訪ねていったりは絶対にしません。でも、大きな地震とかきたとき、やっぱり身内の居場所がわからないというのはとても不安なんです。ひとつ、お願いします」

「あれぇ、セリナがママの代わりに面接?」

いきなり背後で男の声がしたので、あたしはびっくりして振り返った。若旦那が笑顔で立っている。

「この子はね、ヤンママなの」

「へぇ、もう子供がいるんだ。いくつ?」

「まだ四ヵ月なんです、すみません」

なんであやまるのかわからないけれど、あたしは若旦那に頭を下げた。

「四ヵ月! いいじゃないか! うん、そりゃ上等だ。セリナ、雇ってあげなよ。昔っから、女は初産のあとが一番具合がいいって言うぜ」

あたしの肩にまわしかけた若旦那の腕を、佳香さんがやんわりと振り払った。

「だめよ、この子、昼間の世界の人。わたしを訪ねてきただけ」

「へぇ、普通の奥さん……もしかしてセリナの妹?」

とたんに、佳香さんを見つめる若旦那の顔が笑顔のまま硬直した。数秒の沈黙の後、

「ンなわけないよな、ごめん。ごめん」

さっさとトイレの方へ退散していく。いったいどうしたのだろう。佳香さんへ視線を移すと、表情が一変している。というより、表情が飛んでしまっている。