十一章 修復スタートと六十七歳

「大江さん、何時ヒロサワに来ることができますか? 早く来てストークの修復を手伝ってください!」

二〇二一年八月十八日、石井から切迫した電話が入った。

石井は昨日、修復現場のザ・ヒロサワ・シティへ到着したばかりだ。ザ・ヒロサワ・シティとは茨城県筑西市にあるテーマパークで、園内には鉄道、クラシックカー、消防車など大人も子供も楽しめる乗り物の博物館、ゴルフ、オフロードのサーキット場などアウトドアのスポーツ施設、芸術を堪能できる美術館など多彩な顔を持つ。

ストークの修復はその広大なテーマパークに新設された科博廣澤航空博物館内の一角で二〇二一年八月十七日から始まった。

百年先でないと再展示の可能性はないと宣告されたストークだったが、突然、報道陣の前にその姿を現したのは二〇二一年三月三日、その一週間後の三月十日に石井は一本の電話をうけた。

電話の主は国立科学博物館産業技術史資料情報センターのセンター長、鈴木一義からで、鈴木はストークの修復を石井にすべて一任したいという。国立科学博物館所蔵となったストークの修復は石井にとって、初めてのことだ。

ストークが国立科学博物館に入館したのは、世界記録更新から二年後、一九七九年一月十日、一般公開が始まったのは一九七九年十一月一日。一般公開が終わったのは一九九八年十一月三日だ。

この約十九年間に二度の修復が行われたが、不思議なことにストークを設計製作した本人石井のところへは、依頼もなければ、助言を求める連絡すらこなかった。

もちろん当時の石井には山陽鉄工の社長という仕事があり、住まいは倉敷、ストーク展示場所の東京上野まで距離があるということもあったろう。

しかし調べるとどうもそれだけではない。何かあったようだが、それはさておき、四十四年ぶりに、石井はストークの現状を確認し、必要な手当てをする好機に恵まれた。

石井は同級生と後輩たち、すなわち、日大航空宇宙工学コースの卒業研究でストークを共に設計製作、試験飛行を重ねたストークAとBのメンバーたちに連絡を入れた。

ストークは非常にデリケートな機体だ。機体全体は、極薄の手漉き和紙、ガンピ紙で覆われている。

またその構造は〇・五~〇・八ミリ厚のマッチ棒くらいのバルサ材で組子細工の技法で骨を組み、強度を持たせている。

細長い主翼は二一メートルもあり、国立科学博物館で一緒に展示されていた零戦の主翼一二メートルよりも、二倍近く長い。だが重量はその四十七分の一、一六八〇キログラムの零戦に対してストークはわずか三五・九キログラムだ。

観光客が手にしているカメラのベルトが不用意に当たっただけでもガンピ紙が破れてしまう。天女の羽衣のように繊細で唯一無二の機体を修復するには、その取り扱いを熟知したストークAとBの仲間たちをおいて他にない。