「な、何故出て行かなければならないんだね?」

そう問われて骸骨は困惑したようだった。

「言い辛いコトモアリマス、ココの人たち皆が好意的トイウ訳デハ‥‥その、いえソレヨリモ、トウキョ‥‥いえ何でもアリモセン」

伊藤医師のことを指しているのは明らかだった。実は女の起こした事故も街の流言も、そして新聞記事も彼の仕業だったのだ。

「いつまでも知らばっくれていると、結局院長に迷惑がかかることになるぜ、いいのかい?」

「‥‥」

「またダンマリか‥‥まぁいいさ、もう戻る所もないしな」、

そんなことばを骸骨の耳元に囁くようにして呟いたのは、つい昨日のことだったのだ。

だが渋谷医師は彼の企みに気づいていなかった。また骸骨の言いたいのはそれだけではなかったのだ。

「ちょっと待ちたまえ、ここに腰かけて少し話し合おうじゃないか」

つい今し方ほっとしたのも忘れ、本気で相手を引き止めていた。こんな日が来るのを心のどこかで予感していたような気がした。だが折悪しく机のインターホンが鳴って、二階の病棟に呼び出された。どうやら急用らしかった。

「いいか君、すぐ戻るから、待っていてくれたまえ。頼んだよ」

そう咳きこむように言うと、彼は足早に診察室を出ていった。

渋谷医師の去った後ドアが少し開いていた。骸骨は暫らくそのドアの向こうを眺めていた。そして深々と一礼すると、何やらボソボソと呟いた。

十数分後彼は駆け戻ってきた。だが診察室の中は蛻の殻だった。

「おいっ君、おい‥‥」

名前を呼ぼうとしてことばを失った。とうとう名前を決めず仕舞いだった。それに急用とは何のことはない、手型の人工皮膚が手違いでナースステイションに届いていたことだったのだ。

これでは折角の手が要をなさない。いや、そんなことは問題ではなかった。あんな姿で、あんなに世間知らずで一体どこへ行くというのか。

骸骨の去った室内はしいんと静まり返って、急に中が広くなったように感じられた。渋谷医師は荷箱を手にしたまま、なおも口をもぐもぐさせていた。蛍光灯が白々と辺りを照らし、彼は成す術もなくぽかんと立ち尽くしていた。

次回更新は4月18日(土)、8時の予定です。

 

▶この話の続きを読む
舞台は大都会東京へ。あらゆる物があるということは、何もないのと同じだった。

👉『標本室の男』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】私の体を滅茶苦茶にしたあの人は、さえない中年の教師だった。前の席の女子が思わず「キモイんだけど」と漏らすような。