序
馬の背に揺られながら祖父、葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)とともに領内を巡るときの楽しさといったらない。
忍海(おしみ)(現在の奈良県葛城市南部)のいつもと変わらぬ穏やかな光景は言うまでもなく、少しばかり葛城の山懐(やまふところ)に入れば、大和の渺茫(びょうぼう)たる平野が一望できる。
とりわけ畝傍(うねび)の山、そしてそのはるか先に見える耳成(みみなし)山の神々しい姿は、飯豊青郎女(いいとよのあおのいらつめ)の心をつかんで離すことはなかった。
すでに稲刈りも終わり、田を焼く紫色の煙があちこちから立ち上り、それが幾重もの層をなしてたなびく光景は、まさに絵に描いたような美しさだ。
「蟻様、ひめみこさま!」
二人が行く先々で、忍海の民が親しみを込めて声をかけてくる。
「ひめみこさまには、また一段と美しくなられたような」
肩のところできれいに切り揃えられた美しい黒髪、そして黒目がちの大きな瞳を綺羅星のように輝かせる飯豊の愛くるしい姿は、ただそこにいるだけで人々の心を和ませる。
「蟻様、今年も間もなく忍海の硬い土にも負けない鎌(かま)や鍬(くわ)をお納めいたします!」
ここで暮らす民の多くは、百済、新羅、伽耶(かや)からの渡来人やその子孫であったのだが、葛城一族の手厚い庇護のもとで彼らはさまざまな鉄製品を生産し、一族の繁栄を支えている。
飯豊青郎女がイザホワケ大王(履中(りちゅう)天皇)の御子、押磐(おしは)王の娘であることから、人々は親しみを込めて「ひめみこさま」と呼ぶのであるが、当の本人はいたって無邪気に人々の暮らしの中に飛び込み、蟻をはじめ、従者たちをひやひやさせた。
今年十四になったばかりの飯豊は、野の花を摘んだり、蝶を追うことよりも、あちこちに点在する冶金や鍛冶の工房を訪ね歩くことの方をこよなく愛している。