使節団は東京を回っての帰路にはバスを仕立てていた。北京からモンゴル草原へは早朝に出て夜中には着くという。必要な手続きが間に合って同乗できた。

北京から小一時間も高速道路を走ったところに八達嶺(はったつれい)の長城があった。立ち寄るという。

外国人を相手の商売だからだろう。一人四五元は目ん玉が飛び出るほど高い。ちょっとしたアルバイトの半月分の給料だ。チップの文化はない。

その代わりバスの運転手にはお礼として一〇〇元握らせた。大金だ。日本でもこういうことをする業界もある。

近くに雲蒙山公園があって、その先は内モンゴル自治区で、モンゴル人が「門」と呼んだ張家口(ちょうかこう)になる。長城の裏側に当たり盆地になっていた。

ここに元のフビライ・カーンが夏宮殿を構えた。一二月から二月までは北京の紫禁城の中に冬宮殿を構えて、夏冬ともに竹の梁(はり)で組んだ広大なゲルで暮らす。

第二次世界大戦の最後の一年間だけだったが張家口に京都大学の西北研究所が設立されて、錚々(そうそう)たる顔ぶれの学者たちが集まった。

満州、モンゴル一帯の生態学、民族学的調査。

所長は生物界の構成原理として、「棲み分け」を提唱した今西錦司。辞書によると近縁の二つの生物種が同じ地域に分布せず、境を接して互いに棲む場所を分けあって生存していること。生存競争による自然選択というダーウィンの進化論に対する批判の意味を持つ。

この盆地からモンゴル草原へ北東に駆け上がるとシリンホト、北西に駆け上がるとフフホト、その西に包頭(ぼくと)があった。

雲蒙山公園はロンドン港と同じ面積。草原が侵食された山々が一六六座も連なっていた。主峰は雲蒙山(1414)。

一回なんぼのお遊び。長城外壁の立ち上がりに置いた標的を上からモンゴル弓で射る。民族の祭典、ナーダムは各地でモンゴル相撲と競馬と弓射を行って気運を盛り上げながら何日もかけて中央競技場に集まってくる頃には気分はもう大乱闘、競技参加者の頬は擦り剥け、腕と両肩も生傷だらけになっている。

その競争心がむっくりと起こった。真下の標的に向かって肩の筋肉がぎゅっと引き締まって弓が引き絞られたと思いきや、反動でもうその矢が放たれている。命中。

「お前もやってみろ」

と言うので試みたが引くに引けなかった。何かコツがある。

ふわっと草原に仰向けに倒れ込んで、夏の空を見上げた。晴天。風はない。

日本で見た草が目に入ってきた。アザミ。小さないろんな花。上からは草に呑まれている

虫の羽音。虫にとっては大騒動、逃げていたのが戻ってきたか。

羊一匹を潰したら、うどんなどと合わせて親子三人が一ヶ月食べられる。

羊は硬い茎の草を難なく噛み切る。だけど少しでも氷に覆われたら鼻をこすり付けても滑るだけでダメだ。飢える。

 

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