【前回記事を読む】ノックして「コーヒー」と言っても、夫は無視。入っていいか聞くとようやく「どうぞ」と──だが夫の反応は意外にも…
母の言葉
雅彦との距離が開き始めてから、3週間以上が経っていた。
同じ屋根の下にいるのに、まるで他人のように暮らしている。朝の挨拶。仕事の業務連絡。それだけ。夜はほとんど顔を合わせない。雅彦が帳場から部屋に戻る頃には、よし子はもう寝ている――ふりをしていた。
本当は眠れなかった。暗闇の中で、雅彦がそっと布団に入る気配を感じながら、声をかけることもできない。情けなかった。
ある午後、よし子は旅館の離れにいる千鶴の元を訪ねた。雅彦の母は、足腰が弱くなってからは離れで静かに暮らしている。
「おや、よし子さん。珍しいわね」
千鶴は縁側で日向ぼっこをしていた。膝の上に毛糸と編み棒がある。編みかけのマフラーだった。
「お義母さん、お茶を持ってきました」
「ありがとう。座りなさい」
よし子は千鶴の隣に座った。庭の紅葉が風に揺れている。しばらく2人で黙って景色を眺めていた。
「で、何があったの」
千鶴が静かに言った。よし子は驚いた。
「分かりますか」
「あんたの顔を見れば分かるわよ。それに、雅彦の様子もおかしいもの」
よし子は迷ったが、正直に話すことにした。沙織のこと。小野寺のこと。雅彦が心を閉ざしてしまったこと。経営の悩みを1人で抱え込んでいること。すべてを話した。
千鶴は編み棒を動かしながら、黙って聞いていた。話し終えると、深いため息をついた。
「あの子は昔からそうなのよ」
「え?」