【前回記事を読む】裏口から出る夫の姿が見えたから「どこ行くの」と聞くと、振り返りもせずに「銀行。」とだけ──どうして?夫はもう…
すれ違いの日々
2人の間の距離は、それからも縮まらなかった。
何かひどいことがあったわけではない。怒鳴り合いがあったわけでも、決定的な言葉を言い合ったわけでもない。ただ、日々の会話が少しずつ、少しずつ減っていった。
朝のコーヒーを一緒に飲む習慣が、いつの間にかなくなった。
最初は「今朝は早起きだったから先に飲んだ」という理由だった。次に「帳場で仕事しながら飲む」になった。気がつけば、よし子が一人で台所に立って、一人でコーヒーを淹れる朝が続いていた。
ある朝、節子が台所に来た。
「あんた、最近元気ないわね」
「そんなことないです」
「嘘つきなさんな。目が笑ってない」
よし子は黙った。節子が「ふん」と鼻を鳴らした。
「旦那さんと喧嘩した?」
「喧嘩というわけでは――」
「じゃあ何」
「……ただ、すれ違っているだけです」
「すれ違いって、一番厄介なのよ。喧嘩ならまだ熱量があるけど、すれ違いは静かにじわじわ来るから」
節子はそれだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。
「旦那さんは今、ものすごく苦しいのよ。旅館の経営のことで。あの人、弱い顔ができない人だから」
(知ってます。知っているけど、どうすれば良いか分からない)
「私もそこにいたい、って思うのに、入れてもらえない気がして」
「そう感じているなら、入れてもらうのを待っちゃだめよ。自分で扉をこじ開けなさい」
節子はそれだけ言って、台所を出ていった。
(扉をこじ開ける。……どうやって)