【前回記事を読む】夫が部屋の端に立ったまま動かない。何かと思えば「…あの人のこと、聞いてもいい?」と消え入る声で──54歳夫の嫉妬がかわいい
湯けむり宿の危機
「おあいこですね」と笑い合ったあの夜から、数日は穏やかだった。雅彦もいつもの調子を取り戻しかけていた。けれど10月に入り、旅館の経営問題が一気に深刻さを増すと、雅彦の顔から表情が消えていった。
10月に入ると、旅館の経営問題が一気に深刻さを増した。繁忙期の売上では焼け石に水で、沙織の出資を断ったツケが重くのしかかっている。帳場の電卓を叩く雅彦の横顔は日に日に険しくなり、夕食を一緒に取る夜さえ減っていった。
ある夜、よし子が布団を並べて敷いていると、雅彦が帳場から戻ってきた。疲れた顔をしている。最近、経理の書類と格闘する時間が増えていた。
「お茶、淹れましょうか」
「……ありがとう。でも、先に寝ていて。もう少しだけ考え事をしたいんだ」
優しい言葉ではあった。でも、どこか壁がある。よし子は黙って湯呑を戻した。
「ねえ、雅彦さん。最近、何か悩んでいるんですか?」
「……心配かけてるよな。ごめん」
「謝らなくていいんです。ただ、話してほしいんです。ずっと元気がないの、分かってますから」
雅彦は布団に腰を下ろしたまま、しばらく黙っていた。そして、低い声で言った。
「……この旅館、もうだめかもしれない」
よし子は息を呑んだ。雅彦の声が、小さく震えていた。
「一緒に考えましょう。私にも――」
雅彦は黙って俯いた。
「雅彦さん、1人で抱え込まないで」
「……ごめん。今は、うまく話せないんだ」
雅彦は顔を背けた。怒っているのではない。泣きそうなのを隠しているのだと、よし子は気がついた。
「……この旅館が傾いたら、僕にはもう何もない。あなたや美咲さんを支えると言ったのに、何ひとつ守れていない」
(嫉妬じゃないんだ。この人は、自分を責めている)
よし子は胸が痛んだ。小野寺の名前が出たのは、嫉妬の蒸し返しではなかった。経営に追い詰められた雅彦が、自分の存在価値を見失いかけているのだ。