スマートフォンが光った。美咲からのLINE。
『お母さん元気? なんか最近声が暗いよ。大丈夫?』
美咲には心配をかけたくない。『大丈夫よ。仕事が忙しいだけ』と返した。嘘だった。
(ごめんね、美咲。お母さん今、全然大丈夫じゃない)
翌朝、廊下で雅彦とすれ違った。
「おはようございます」
「ああ」
それだけ。目も合わせずに通り過ぎていく。その背中がどんどん遠くなっていく気がした。追いかけたい。でも追いかけ方が分からない。
昼食の片付けをしていると、裏口から雅彦が出ていくのが見えた。駐車場に向かっている。
「どこ行くんですか」
思わず声をかけた。雅彦は振り返らずに答えた。
「銀行だ。融資の相談に行ってくる」
1人で。全部1人で背負おうとしている。
(あの人、1人で戦おうとしている。私のことを、もう同じ場所に立てる人間だと思っていないのかもしれない)
よし子は雅彦の車が見えなくなるまで立ち尽くしていた。握りしめた手の爪が、掌に食い込んでいた。
午後、よし子は旅館の裏手にある小さな祠に手を合わせた。この旅館の守り神だと千鶴に教えてもらった場所だ。何を祈ればいいのか分からなかった。ただ、このまま2人の間の溝が深くなっていくのだけは嫌だった。
帰り道、渓流のほとりに座って水の音を聞いた。流れは絶えることなく、岩を削りながら下っていく。止まらない。後戻りしない。人生も同じだ。立ち止まっている場合じゃない。
(私は、どうすれば良い。待つだけじゃ、何も変わらない)
どう動けばいいのか。自分から雅彦に踏み込むべきなのか。それとも待つべきなのか。答えが見つからないまま、日が暮れていった。
次回更新は4月9日(木)、21時の予定です。
▶物語を最初から読む
“ある条件”さえのめば、月給32万円のハロワ求人…娘に見せると震える声で「月に1度は必ず帰ってこれるんだよね?」と…
▶イチオシ回を読む
2度目のキスは、あの夜よりも深かった…体の隅々まで優しく触れられて、声が漏れてしまった。体中に電流が走るような感覚がして…
▶『愛され未亡人の、湯けむり恋物語』連載記事一覧はこちら