雅彦の目が潤んでいた。この人は怒っているのではない。自分が情けなくて、それをよし子に見せたくなくて、距離を取っていたのだ。

「雅彦さん。顔を見せてください」

雅彦はゆっくりと振り向いた。目が赤かった。よし子は胸が締めつけられた。こんなに辛い顔をしていたのに、ずっと1人で耐えていたのか。

「……情けない男だな、俺は」

雅彦は掠れた声でそう言って、布団に横になった。背中を丸めて、小さくなっている。よし子は何か言いたかったが、今はそっとしておくべきだと思った。

(この人は弱い自分が許せないんだ。助けてと言えない人なんだ。あの「おあいこ」の夜に見せてくれた素直さが、経営の重圧で隠れてしまっている。でも、消えたわけじゃない。きっと、まだあの人の中にある)

よし子は電気を消した。暗闇の中で天井を見つめた。どうすればいいのか分からなかった。

それからも、雅彦は帳場にこもる時間が増えていった。夕食を一緒に食べない日も出てきた。よし子が話しかけると「ああ」と返事はするが、どこか上の空だった。怒っているのではない。ただ、余裕がないのだ。

雅彦が帳場にこもる時間はますます増えていった。建物の雨漏りの修繕が急がれるが、費用を捻出する目処が立たない。銀行にも融資を断られたらしいと、節子が教えてくれた。

「雅彦さん、何かできることはありませんか」

「……大丈夫だから」

「大丈夫じゃないでしょう。顔色が悪いですよ」

「……心配かけてごめん」

雅彦はそれだけ言って、また帳簿に目を落とした。突き放されたわけではない。でも、入れてもらえない。よし子は唇を噛んだ。

(「ごめん」って言ってくれるのに、それ以上は話してくれない。この壁が、いちばん辛い)

節子がそっと声をかけてきた。

「旦那さん、最近ずっと帳場にこもってるわね。経営のことで頭がいっぱいなのよ。あんまり追い詰めないであげて」

「追い詰めてなんかいません。ただ話を聞いてほしいだけなのに」

「男の人はね、弱っている時ほど1人になりたがるのよ。厄介な生き物だわ」

節子は肩をすくめた。

(節子さんの言う通りかもしれない。でも、分かっていても辛い)

10月に入った。紅葉の季節で少し客が増えたが、焼け石に水だった。雅彦は毎晩遅くまで帳場で帳簿と格闘している。食事もろくに取らず、目の下に隈ができていた。

よし子は1人で布団の中にいた。隣に雅彦がいない夜が続いている。新婚の頃の、あの温かい夜が嘘のようだった。

このまま壊れてしまうのだろうか。沙織の騒動を乗り越え、小野寺の告白も正直に伝えた。正しいことをしてきたはずなのに、なぜこんなにすれ違うのだろう。