その日の夕方のことだった。
夕食の準備を終えて、よし子が廊下を歩いていると、帳場の前で立ち止まった。中で雅彦が電話をしている声が聞こえる。銀行の担当者と話しているようだった。声が疲れている。
ドアの前で、よし子は少し迷った。
(入ろうか。でも、また「いい」って言われたら――)
電話が終わった。静寂。
ドアを開けずに、よし子はその場を離れた。
(ダメだ。また逃げてしまった)
夕食の時間、雅彦は「先に食べておいて」と言ってきた。帳場で仕事があると。
よし子は1人でご飯を食べた。品数は2人分作っていたので、雅彦の分が余った。
(この煮物、雅彦さんが好きなやつなのに。冷めてしまう)
ラップをかけて冷蔵庫に入れた。
夜遅く、雅彦が部屋に戻ってきた。よし子はまだ起きていた。
「何か食べましたか」
「……後でもらう」
「冷えてしまいます。少しだけでも食べてください」
「……ありがとう。でも今は入らない」
「でも、何も食べてないでしょう――」
「……ごめん。食欲がないんだ」
よし子は口をつぐんだ。
(謝ってくれる。でも、それだけ。この人は怒っているんじゃない。ただ、どうしていいか分からないんだ。私と同じで)
雅彦が布団に入る。よし子は電気を消す。
暗闇の中で、2人の呼吸の音だけがある。
こんなに近くにいるのに、こんなに遠い。
(雅彦さん、何を考えているの。何が辛いの。話してよ)
心の中では何度でも呼びかけていた。でも声に出せない。声に出したら何かが壊れる気がして、よし子はただ暗闇の中で目を閉じていた。
翌朝も、また一人でコーヒーを飲んだ。
帳場の前を通ると、雅彦が書類を広げていた。目が合った。
「……おはようございます」
「ああ」
それだけだった。
(あなたのことが好きだから、こんなに苦しい。好きじゃなければ、こんなに苦しくない)
よし子は廊下を歩きながら、奥歯を噛みしめた。
節子の言葉が頭にある。扉をこじ開けろ。自分から。でも――どうやって。どんな言葉で。
(待っているだけじゃだめだ。分かってる。でも怖い。また「いい」って言われたら、今度こそ、何も言えなくなってしまいそうで)
その夜も、また1人でご飯を食べた。また煮物を冷蔵庫に入れた。また暗闇の中で眠れないまま過ごした。
3日目の朝。よし子は台所に行って、コーヒーを2杯入れた。雅彦の分まで。
帳場のドアをノックした。
「雅彦さん。コーヒーを持ってきました」
返事がない。
「……入ってもいいですか」
少しの間の後、「どうぞ」という声がした。
よし子はドアを開けて、机の脇にコーヒーを置いた。雅彦は書類を見たまま顔を上げなかった。
「置いていきますね」
踵を返そうとした時、
「……ありがとう」
雅彦の声がした。
よし子は振り返らなかった。でも、少しだけ足を止めた。
(ありがとう、って言ってくれた。それだけでいい。今日はそれだけでいい)
廊下に出てドアを閉めると、よし子は深く息を吸った。
(まだ話せる。まだ大丈夫。諦めない)
義母の千鶴に会いに行こうと、よし子はそのまま旅館の奥の離れへ向かった。
次回更新は4月10日(金)、21時の予定です。
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