【前回の記事を読む】「お金を奪うのです」紹介された"アルバイト"は3千万円の強奪。暴力団の事務所へやってくる男女を待ち伏せし…
灰色の風が吹く
午前三時前。夜空の星がやけに明るく輝いていた。夜襲のアルバイトをするには分の悪い日だ。犯行を決意してから、すでに五日ほど経過していた。
古ぼけたビルの五階から六階に上がる階段で結城と間下は座り込んだ。
結城はつい先日まで、目の前にある男性用便所で清掃作業をしていた日々を懐かしがった。便所の扉を眺めていると、随分前のことのように思える。
これからしようとしていることはれっきとした犯罪だ。間下の言葉に乗せられ、ここまでやって来たが、足元が浮つく。自分にだって良心がないわけではない。
とはいえ、目に見えない何者かに背中を押されている。自分の生き方について考え続けてきたが、一向に視界が開けない。道の先には大きな海しかなく、飛び込まなければ向こうの陸地にはたどり着けない。もう、後戻りはできないのだ。
そろそろ獲物がやって来る。打合せを二回したのに加え、三日前にはリハーサルもこなした。手はず通りに遂行すればすぐに片づく。だが、人がやって来る気配がしない。今日に限ってビルの外も静かすぎる。
「遅いじゃないか。若い男女の二人連れは本当に来るのか。もう午前三時を回っているぞ」
黒い覆面をかぶった結城がささやいた。
「もうすぐ来ますよ」
同じ色の覆面姿をした間下が落ち着き払った態度で答えた。
当初の計画を多少変更し、古びたビルの右斜め前に逃走用のレンタカーを駐車させた。久美子が見張り兼運転役として、レンタカーの運転席で待機していた。午前三時二十分。間下が懐から携帯電話を取り出し「わかった」とドスが効いた声を発した。
「来たのか」
結城が聞いた。
「やって来たのは予想通り若い男と女の二人連れだそうです」
間下は目を細めた。
ほどなくして、階段をゆっくりと上ってくる靴音がした。靴音は調和の取れたリズムを奏でていた。話し声は聞こえない。靴音は徐々に甲高くなってきた。あと十五秒ほどで五階の階段を上りきり、踊り場に差しかかるはずだ。
結城と間下は目を合わせ、一呼吸置いてから一斉に若い男と女の前に飛び出した。
「えっ」
若い男が口を開けたまま言った。
若い女は目を大きく見開いた。
結城が若い女、間下が若い男をいきなり階段の下につき飛ばした。若い男も女も悲鳴を上げながら、後頭部から転げ落ちた。結城は踊り場に落ちた赤色のボストンバッグを拾った。うずくまっている若い男と女の傍らを素早く通り抜け、出口に向かって階段を一目散に駆け下りた。間下が後に続いた。
結城は赤色のボストンバッグを右手で握りしめていることも忘れて必死で走った。
久美子が乗っているレンタカーはどこだ。通りにまで達したが、見つけることができない。
一旦、立ち止まった。
間下が「おい」と声をかけ、右斜め前を指で示していた。結城は間下の背中を追うように再び走り出し、レンタカーの後部座席に飛び乗った。辺りに車両の姿はない。レンタカーが発進すると、間下が後ろを振り返り「久美子、車のスピードをもっと上げろ」と叫んだ。