「もう一つ、約束します。旅館は売らない。この旅館は、妻との思い出の場所であり、今はあなたとの場所だ。誰にも渡さない」
よし子は雅彦の胸に額を押しつけた。濡れたシャツは冷たかったが、その奥の体温は温かかった。
「帰りましょう。風邪をひいてしまいます」
「その前に」
雅彦がよし子の顎に指を添え、顔を上げさせた。
「ごめんなさい。もう二度とこんな思いはさせない」
雨の中でキスをした。冷たい唇と唇が触れ合い、そこからじわりと温もりが広がった。2人は手を繋いで旅館に戻った。ぬかるんだ山道を、ゆっくりと歩いた。
翌日、沙織はチェックアウトした。ロビーで2人に深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
毅然とした表情だった。ビジネスウーマンの顔に戻っている。タクシーに乗り込む前、沙織はよし子を見て小さく微笑んだ。「いい奥さんですね」。
(私には、この言葉の本当の意味が分からない。でも、ありがとうと言いたい気もする)
車が山道を下っていくのを見送りながら、よし子はそっと雅彦の袖を掴んだ。
嵐は過ぎた。でもよし子は知らなかった。次の嵐が、思いもよらない方向から来ることを。
その夜、2人は離れの部屋で温かいお茶を飲んだ。濡れた服を着替え、囲炉裏に火を入れた。あの夜と同じ囲炉裏。あの夜と同じ畳の匂い。でも今は、あの時より深い絆がある。
「風邪、大丈夫ですか」
「あなたこそ。ずぶ濡れで走ってきて」
「あなたのためなら、嵐の中でも走りますよ」
「大げさなんですから」
笑い合った。その笑顔が、何よりの和解の証だった。よし子は雅彦の隣に寄り添い、肩に頭を預けた。囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てている。
次回更新は4月6日(月)、21時の予定です。
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