「雅彦さん、パンは薄切りですか、厚切りですか?」
「どちらでも」
「はっきり言ってください」
「……厚切りかな」
「分かりました」
朝の台所に、ふた分の音がした。パンを切る音。コーヒーの湯気。卵がフライパンの上で焼ける音。
「あ」
「どうしました」
「卵、失敗しました。割れてしまって」
よし子がのぞくと、卵の黄身が半分崩れていた。白身の形もいびつだ。
「ふふ」と雅彦が笑った。
「笑わないでください」
「おいしければいいんです」
テーブルに向かい合って座った。2人分の朝ごはん。形の悪い目玉焼きと、厚切りのトーストと、コーヒー。
雅彦がコーヒーに砂糖を入れながら言った。
「今日から、毎朝こうなんですね」
「ええ」
「……慣れるのに時間がかかるかもしれません」
「私もです」
しばらく2人で、黙って食べた。沈黙がちっとも苦しくなかった。
(こういうのを「夫婦」というのかな。言葉がなくても、同じ時間の中にいる感じ)
食後に雅彦がコーヒーカップを洗い始めたので、よし子が「私がやります」と言ったら、「2人でやりましょう」と言われた。こんな些細なことで、また心臓が揺れた。
(大げさかな。でも本当に、嬉しいんだから仕方ない)
仕事が始まる前の時間、縁側に並んで座った。山が朝陽に照らされている。川の音が遠くから聞こえる。
「よし子さん」
「はい」
「後悔していませんか」
「何を」
「この旅館に来たこと。私と結婚したこと」
よし子は少し考えた。後悔。あるだろうか。
「ないです」
雅彦は黙って俯いた。