「付き合ってほしい。恋人として」

雅彦が正面に回り、よし子の両手を握った。真剣な目だった。朝の薄明かりの中で見る雅彦の顔は、昨夜よりも年相応の皺が目立つ。それが、よし子には人間らしくて愛おしかった。

(愛おしい、と思ってしまった。この人のことを)

でも、即答はできなかった。

「少し、時間をもらえますか」

「もちろんです。待ちます」

雅彦は穏やかに笑った。それでもよし子の手は離さなかった。指を絡ませたまま、窓の向こうが明るくなっていくのを2人で眺めた。

急いで自分の部屋に戻り、仕事着に着替えた。鏡を見ると、頬が紅潮している。唇が少し腫れている気がする。こんな顔をしていたら、すぐにバレてしまう。冷たい水で顔を洗った。

(鏡の中の私が、誰だか分からない。こんな顔、したことがない)

廊下に出ると、節子が向こうから歩いてきた。

「あら、随分早いわね。今朝は」

「え、ええ。目が覚めてしまって」

節子がじっとよし子の顔を見た。心臓が止まりそうになった。

(見ないで。お願い、見ないで)

「……なんだか顔色がいいわね。この山の空気が合ってきたんじゃない」

それだけ言って、節子は通り過ぎていった。よし子はこっそり胸を撫で下ろした。

その日の仕事はいつもと変わらなかった。客室の掃除、お膳の準備、お客様のお見送り。でも、雅彦と廊下ですれ違うたびに、心臓が飛び跳ねた。他の従業員の前では何も変わらない態度の雅彦だが、誰も見ていない一瞬に目配せをくれる。それだけで胸が熱くなった。

こんなの、まるで学生みたい。48歳にもなって。

夜、部屋で美咲にLINEを送った。「今日もお疲れさま。美咲は元気?」返事はすぐに来た。「元気だよ。模試の結果が返ってきた。まあまあだった」。よし子は画面を見つめた。この子のためにここに来たのだ。恋愛をしに来たわけではない。