囲炉裏の火に照らされた離れの部屋で、2人は重なり合った。藤堂さんの手は優しく丁寧だった。よし子の体の隅々まで大切にするように触れた。
「こんな気持ち……もう二度とないと思ってた」
よし子が囁くと、藤堂さんは額に唇を落とした。
「僕もです」
窓の外は夜の闇に包まれていた。遠くで沢の水が流れる音だけが聞こえる。2人の体温だけが、小さな離れの中に満ちていた。
ふと、藤堂さんが身を起こし、よし子の顔を覗き込んだ。囲炉裏の灯りに照らされたその瞳が、真っすぐにこちらを見ている。
「よし子さん。——雅彦、と呼んでくれませんか」
「え——」
「『藤堂さん』では、まだ距離がある気がして。名前で呼んでほしい」
胸が震えた。名前を呼ぶということは、雇い主と従業員の線を越えるということだ。でも、もうとっくに越えている。
「……雅彦」
声に出すと、その響きが胸にまっすぐ沁みた。藤堂さん、ではなく——雅彦。たった数文字の違いなのに、急に距離が縮まった気がした。
雅彦がふっと笑った。嬉しそうな、照れたような笑顔だった。
(笑顔がこんなに可愛い人だったんだ)
「もう1回」
「……雅彦」
雅彦はよし子の手を取り、胸元に引き寄せた。心臓の音が伝わってくる。自分のと同じくらい早く脈を打っていた。
正志、ごめんなさい。心の中でそう呟いた。でも、もう1人で生きていくのは寂しすぎた。
雅彦の腕の中で目を閉じると、長い長い夜が始まった。
次回更新は3月26日(木)、21時の予定です。
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