「ただ、怖いんです。自分が何を感じているのか、分からなくて」
声が震えていた。48年間、こんなふうに自分の気持ちを誰かに話したことがなかった。正志とは見合い結婚で、恋愛感情を言葉にしたことなど一度もなかったのだ。
藤堂さんはしばらく黙っていた。囲炉裏の火が揺れ、2人の影を壁に映し出している。沈黙が痛かった。やっぱり言うべきではなかったと後悔しかけた時、藤堂さんが口を開いた。
「僕も怖い」
低い声で言った。
「妻を亡くしてから、誰かをこんなふうに思うことはないと決めていました。この旅館を守ることだけを考えて生きてきた。でも——」
藤堂さんがよし子の正面に膝をついた。手を伸ばし、よし子の手をそっと包んだ。大きくて温かい手だった。
「あなたが来てから、この旅館に灯がともった。僕の中にも、灯がともった」
涙が溢れた。止めようと思っても、止まらなかった。
「私みたいなおばさんに——」
「おばさんなんかじゃない」
藤堂さんの声が強くなった。
「よし子さんは、美しい人です。一生懸命に生きている姿が、僕には眩しかった」
引き寄せられるように、体が近づいた。藤堂さんの腕がよし子の背中に回った。しっかりと、でも壊れ物を扱うように優しく抱きしめられた。
「もう1人で泣かなくていい」
耳元で囁かれた瞬間、糸が切れた。よし子は藤堂さんの胸に顔を埋めて泣いた。3年分の寂しさが一気に溢れ出すように、声を上げて泣いた。
(ずっと1人だった。誰かにこうして抱きしめてもらいたかった。ずっとずっと)
藤堂さんはずっと、よし子の髪を撫でていた。
涙が止まった時、顔を上げると、すぐそばに藤堂さんの顔があった。目が潤んでいる。この人も泣いていたのだと気がついた。
2度目のキスは、あの夜よりも深かった。藤堂さんの舌がそっと唇を割り、よし子は小さく声を漏らした。体中に電流が走るような感覚がした。こんな気持ちになるのは、生まれて初めてだった。正志のことは愛していた。でも、こんなふうに体の芯から震えたことはなかった。
藤堂さんの手がよし子の肩に触れ、着ていた割烹着の紐をゆっくりとほどいた。よし子は抵抗しなかった。できなかった。
「いいですか」
藤堂さんが額を合わせて尋ねた。吐息が熱い。
よし子は目を閉じて、小さく頷いた。