「僕が惹かれたのは月夜の雰囲気じゃない。一生懸命なあなたが、眩しかったんです。最初からずっと」
花鋏が手から落ちた。からん、と廊下に音が響いた。
「見ていたんですか」
「見てました。常連のお客様に叱られた夜も、料理長に頭を下げに行った朝も、膝が腫れても正座の練習をしていた姿も」
知られていたのだ。全部。誰にも見せたくなかった不格好な姿を、この人はずっと見ていた。
(全部。全部見ていたんだ)
「なぜ声をかけてくれなかったんですか」
「邪魔をしたくなかった。あなたが自分の力で立ち上がろうとしているのが分かったから」
涙がこぼれた。藤堂さんが一歩近づき、よし子の涙を親指でそっと拭った。あの夜と同じ仕草。でも今度は月明かりの中ではない。夕暮れの廊下で、正面から。
「あなたを好きになった理由は、こういうことだった。ちゃんと伝えたかった」
よし子は涙を拭い、顔を上げた。この人の目を見た。穏やかで温かくて、でも真剣な目。
藤堂さんの手がまだ頬にあった。あの露天風呂の夜と同じ。でも今度は涙を拭うだけでは終わらなかった。
藤堂さんがゆっくりと顔を近づけた。よし子は目を閉じた。唇が触れた。
柔らかくて温かいキスだった。夕暮れの廊下で、山桜の花びらが風に舞っている。膝が折れそうになった。藤堂さんの腕がそっと腰を支えた。
唇が離れた時、2人とも息を止めていた。
「……ずっと、こうしたかった」
藤堂さんが囁いた。よし子は何も言えなかった。心臓が壊れそうなほど高鳴っている。48歳にして初めてのようなキスだった。正志とは見合い結婚で、こんなふうに胸が震えたことは一度もなかった。
「……ありがとうございます」
(ありがとう、って何よ。情けない返事だけれど、他に言葉が出てこない)
それだけ言うのが精一杯だった。でも心の奥で、確かに何かが変わった。この人は、私の頑張りを見ていてくれた。そのうえで、私を選んでくれた。
次回更新は3月25日(水)、21時の予定です。
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