5月に入ると、口コミを見てやってくる新規のお客様が増え始めた。

よし子のノートのページは着実に埋まっていった。2度目に来たお客様の名前を覚えていて「前回は確か桜の季節にいらっしゃいましたね」と声をかけると、驚きと喜びの表情が返ってきた。

リピーターが増えた。週末は満室になる日も出てきた。

「あんたの一筆箋、真似していいかしら」

節子がぽつりと言った。よし子は驚いた。あの厳しい節子が。

「もちろんです。むしろ節子さんの字のほうが達筆で——」

「お世辞はいいわよ。ただ、あんたのやり方は悪くないと思っただけ」

節子なりの最大級の賛辞だった。

(節子さんに認めてもらえた。今日は何かあるのかな、いいことが)

ある夕暮れ、よし子が廊下の花を活け替えていると、背後に気配を感じた。振り返ると藤堂さんが立っていた。あの露天風呂の夜以来、2人きりになるのは初めてだった。

「あの——」

「栗原さん。いや、よし子さん」

藤堂さんが一歩近づいた。目がまっすぐこちらを見ている。

「ずっと言いたかったことがある」

よし子は花鋏を握ったまま動けなかった。

(心臓が変な音を立てている。落ち着いて)

「あなたが来てくれてから、この旅館が変わった。お客様の笑顔が増えた。節子さんの表情も柔らかくなった。それは全部あなたの力だ」

「私は何も特別なことは——」

「特別なんです」

藤堂さんの声に力がこもった。

「コロッケを揚げていた手で、一筆箋を書いて、お客様の好みをノートに記録して、朝5時から廊下を磨いて——あなたは自分では気づいていないかもしれないが、ものすごく努力している。その一つひとつが、この旅館の灯になった」

よし子は唇を噛んだ。泣きそうだった。