【前回記事を読む】あの夜から3日、触れられた温もりがまだ消えない…意識して目も合わせられないけど、実は彼の“サイン”に気づいていた
あなたがいる理由
常連客の一件をきっかけに、よし子は1冊のノートを作った。
100円ショップで買った大学ノート。表紙に「お客様帳」と書いた。ページごとにお客様の名前、好み、苦手なもの、前回の会話の内容、お子さんやお孫さんの話。気づいたことは何でも記録した。
節子が覗き込んで「何それ」と言った。
「スーパーの惣菜コーナーにいた時、常連のお客さんの顔と好みを全部覚えてたんです。それと同じことをやろうと思って」
「惣菜コーナー……」
節子は呆れた顔をしたが、否定はしなかった。
(惣菜コーナーって言ったら馬鹿にされるかと思ったけれど、よかった)
もう一つ、よし子は工夫を始めた。夕食のお膳に、小さな一筆箋を添えるのだ。「本日は遠いところからお越しいただきありがとうございます。山の桜が満開です。どうぞごゆっくりお過ごしください」。丸くて少し下手な字。でも一枚ずつ、心を込めて書いた。
「こんなの、お客さんが喜ぶの?」
節子が疑わしそうに言った。
「分かりません。でも、嫌な気持ちにはならないと思うんです」
結果はすぐに出た。旅行サイトの口コミに、こんな投稿が載ったのだ。
『部屋に手書きの一筆箋がありました。仲居さんの温かいお心遣いに感動。料理もお湯も最高です。必ずまた来ます』
(読んでくださった。ちゃんと読んでくださった)
藤堂さんがその口コミを見つけたのは、投稿された翌日だった。
「栗原さん、これ——」
事務所のパソコン画面を指さす藤堂さんの目が潤んでいた。
「こんな口コミ、何年も見てなかった」
「お客様が喜んでくださったなら——」
「喜ぶどころじゃない。——これは、お金では買えないものだ」
藤堂さんの声が震えていた。
(泣きそうになっている。この人が)
この旅館は何年も客足が遠のき、口コミの評価も下がり続けていた。それがたった1人の仲居の工夫で、温かい言葉が返ってきた。