「す、すみません。先に入っていたとは知らなくて」

藤堂さんも慌てた様子で目をそらした。

「い、いえ、こちらこそ——」

よし子は湯の中に身を沈めた。肩まで隠れているとはいえ、心臓が壊れそうなほど高鳴っている。

「あの、僕は出ますので——」

「いえ、あの、大丈夫です。広いですし。……向こう側に」

なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。藤堂さんは少し迷った様子だったが、「では、失礼して」と岩を挟んだ反対側に入った。

しばらく沈黙が続いた。湯の音だけが響いている。

「……綺麗な月ですね」

藤堂さんが言った。

「ええ、本当に」

「妻が生きていた頃は、よく2人でここに来ました。月を見ながら、たわいのないことを話して」

よし子は黙って聞いていた。

「未練がましいですね。5年も経つのに」

「そんなことないです」

よし子の声は自然と柔らかくなった。

「私も同じですから。夫を亡くして3年経っても、ふとした瞬間に思い出します。一緒に見たテレビ番組とか、夫が好きだった焼き魚の焼き加減とか」

「焼き魚の焼き加減」

藤堂さんが小さく笑った。

「分かります。妻はコーヒーに砂糖を2杯入れるんです。いまだに自分の分を淹れるとき、砂糖を2つ取りそうになる」

2人は静かに笑い合った。同じ喪失を抱えた者同士だけが分かち合える、温かい沈黙だった。

「栗原さん」

「はい」

「——あなたに来ていただいて、よかった」

藤堂さんの声がかすかに震えていた。