【前回記事を読む】娘の学費のために始めた仕事だったのに…私も夫を亡くしたから、「妻が生きていた頃は…」と言う彼と何かが通じ合ってしまい…

月明かりの露天風呂

旅館に来て3週間が経った。

節子の指導はあいかわらず厳しかったが、よし子は少しずつ仕事を覚えていった。お辞儀の角度、お茶の出し方、布団の敷き方。体が自然に動くようになると、節子の小言も減った。

「まあ、最低限のことはできるようになったわね」

節子にそう言われた日、よし子は泣きそうになった。この人なりの褒め言葉だと分かったからだ。

4月に入り、旅館の周囲は山桜で薄紅色に染まった。客足も少し増えた。忙しい日は朝から晩まで走り回ったが、不思議と充実感があった。スーパーでコロッケを揚げていた頃には感じなかった手応え。お客様の「ありがとう」が、まっすぐ胸に届く。

美咲とはほぼ毎晩LINEでやり取りしていた。「お母さん元気? 無理しないでね」という娘の言葉に、よし子はいつも「大丈夫よ」と返した。大丈夫。本当に大丈夫になりつつあった。

ある夜のことだった。

宿泊客が全員寝静まった後、よし子は旅館の裏手にある露天風呂に向かった。従業員は深夜に使っていいと言われている。1日の疲れを湯に溶かすのが、よし子のささやかな楽しみだった。

脱衣所で服を脱ぎ、タオルを巻いて外に出た。湯気の向こうに、月が丸く浮かんでいた。空気は冷たいが、湯は熱い。肩まで浸かると、全身がほどけていくようだった。

目を閉じて深く息を吐いた——その時、がさりと音がした。

「あ——」

よし子は声を上げた。岩陰から藤堂さんが現れたのだ。タオルを腰に巻いただけの姿。月明かりに照らされた上半身は、年齢のわりに引き締まっていた。