その後強行された10月11日から11月14日まで2度目のワールドツアーではYMOの3人は疲弊する。
約1ヶ月で計15公演をこなすハードスケジュールで、長距離のバス移動も多かった。
しかし、このワールドツアーは1回目よりも世界での反応は良かった。
立川直樹は1回目のワールドツアーと明らかに反応が違っていたことを語っている。
「イギリスではすごかった。ちょうどテクノの子たちで、幸宏とやりたいとか、教授とやりたいとかっていうのが出てきて。
やっぱり幸宏のドラムって、タイム感とか、それまで全然いなかったタイプのドラマーだったから、すごくニューウェイヴの連中が憧れたし
(中略)だから、YMOというのはポップアートだったんだ 2」
これがYMOとして最後のワールドツアーとなる。
細野が当初言っていた、各国にいる少数派に新たな音楽を届けることはできたことで目標は達した。しかし、商業的には成功とは言えなかった。
「細野はこの2回の世界ツアーを通して、自身の音楽観が、コミュニケーションの成立しにくい海外市場では受け入れられないことを痛感したのだろう3」。
ソニーやホンダのように町工場から世界を制した工業製品に対し、アルファという新興レーベルで、サブカルチャーから始まったYMOは、工業製品ではなくカルチャーとしての音楽で世界を席巻しようとしたが、できなかった。
3度目のワールドツアーを行ったとして、また同じことを繰り返すことは明らかであり、精神的にも限界であった。YMO、スタッフの調和が乱れてきたのである。
村井は言う。
「僕がガッカリしたのは、せっかく海外で成功の芽が出てきたのに、みんな体力ないわけよ。
くたびれちゃって。もう海外に出て行くのがやだって言うんだ。ところが裏腹に日本でメチャメチャ売れちゃうんだよ。それは僕は予想しなかったことだった4」