確か……昼休みだったか、黒沼が薄暗い中イヤホンで何か聴いていたのを思い出した。もしかしたらこの『草原情歌』だったのかもしれない。

曲の中で歌われている、どこまでも続くモンゴルの草原。美しい少女が住むモンゴルの草原。黒沼は、暗闇の中にいながら、光り射すモンゴルの草原を思い描いたのかもしれない。そうであってほしい、なぜか新島はそう思った。いつも闇の中にいる人だと思っていたがそれは違う。

「良い曲ですねー」

「ウン」

地図を確認した時点では、正森集落は深い山の中だと思っていた。しかし実際来てみる山道は舗装され手入れの行き届いた里山が広がっている。

ゆったりと穏やかな起伏、点在する家々はいかにも心地良さそうに夕闇の中に納まっている。不案内な黒沼の案内に従いながらゆっくりと車を走らせていたが、ふとY字路の手前で車を止めた。目の前のバス停

が気になったのだ。

「ここのバス停の名前は?」

この地区のバス停の名前はすでに調査済みなのだが一応聞いてみた。

「マサモリ」

知っている……知っているのに別の答えを期待してバス停名を尋ねてしまう未練。新島の脳裏に忘れかけていた夢の記憶がよぎったのだ。ゴソゴソと黒沼が紙袋を抱え直し、降りる体勢をとったことで家が近いことがわかる。本道から外れゆっくりと側道を上がっていく。

「ココデイイ」

「そこの家?」

「ウン」

右前方の家が黒沼の家らしい。できれば家の前まで送っていきたいのだが……。

「ドウモ」

黒沼がドアに手を掛けてしまったので降ろさざるを得ない。庭先にハナミズキが左右に一本ずつ、門柱代わりのように植えられている家。その奥に家屋が黒っぽい塊のように見える。

「カセットありがとう」

「ヤル」

一言だけ言って不愛想に黒沼は降り、ペコリと頭を下げ屋内に消えてしまった。簡単すぎる別れ方ではないか。あわよくば糸さんの自画像を見る機会があるかもしれない、そう期待していた新島は取り残された気持ちで黒沼の後ろ姿を見送った。

──ここで黒沼と糸さんは育った……ここで少女の千葉さんが遊んだ──

黒沼が消えたハナミズキの先はすでに宵闇の中にある。

その視界の中、何か見える。

──モヤ?──

暗がりに何か見える。

──何だ?──

見詰めるその先、それはゆっくりと顕在化してきた。人影のようだ……。それも女性。突然の予期しない事態に新島は凍りついた。

幽霊? 逃げ出すこともできず、首だけ伸ばして覗き見た。現れた女性は申しわけなさそうに、遠慮がちに立っている。暗くて遠いので表情は伺えないが、自分と同じようにその人も今の状況から動きが取れず立ち尽くしている。怯(ひる)んでいるようにも見える。

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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