【前回の記事を読む】葬儀の日、同僚の遺影は“写真”ではなく“鉛筆画の自画像”だった。彼女は絵を描いていた時、何故か「ごめん」と言っていた。
おごそかな挨拶
六時五十分、今日の残業が終わろうとしている。新島のいる現場事務所に渡辺が顔を出した。ドアから顔だけ出して入って来ない。
「何か?」
「いや、ちょっと……」
渡辺は言い淀んでいる。
「黒沼の……帰りの足は本当に大丈夫?」
以前には見られなかった渡辺の気遣い……渡辺は残業した黒沼の帰りが心配で確認に来たのだ。
「お任せください」
「じゃあ」
笑顔と一言を残して渡辺が去り、ほどなくして黒沼が現れた。大きな紙袋からゴソゴソと何かを探している。よく見ると大きな紙袋は二重になっていて、中にはラジカセが見えた。
取り出したのはカセットテープ。曲が入った状態で販売されているテープではなく、自分で曲を入れた手作りのテープだ。
「ヤル」
「えっ? もらっていいの?」
「ヤル」
この思いがけないプレゼントは嬉しかった。プレゼントをくれようとする心が嬉しかっ
た。カセットには下手な文字で、ザ・ピーナッツ、久保田早紀と書いてある。
「ピーナッツですか。嬉しいなー、聴きながら帰りましょう」
「ウン」
ファイバー一係に就任して二ヵ月あまり。我がことながらずいぶん遠くまで来たと思う。距離ではなく、出来事の濃密さがそう感じさせた。
二ヵ月前のスタートライン、始まりはあの夢であった気がする。恋愛は他人がするものと思い込んでいた新島が夢を見た。
夢の中で美しい人にブルーのゼリーをもらい、美しい人と見詰め合い、自信満々に恋をした。目覚めてからもなお心が弾んでいたのを覚えている。初出勤の朝だったこともあり象徴的な気がした。
良いことが起こる予感。きっと誰かに出会える……未だ見ぬ人と出会える……心が前のめりになった。後ろ向きだった新島は夢の力に後押しされて二ヵ月あまり、ずいぶん遠くまで来ることができた。上出来といっても良い。上出来なのだが……あんなに弾んだ夢の記憶がだんだん色褪せ始めている。
帰りの車内で黒沼との会話はほとんどなく、緩やかな登りの山道に入ってきた。
「カセット聞きましょう。入れてくれる?」
「ウン」
黒沼がカセットを差し込むと、ゆっくりとした前奏が流れ出した。どこか懐かしさを感じる曲調だ。新島が音量を上げた。
──何と!──
その曲の美しさに息を呑んだ。