【前回の記事を読む】副医院長の心を奪ったのは、美しい事務員だった…でも、そこに“燃えるような恋愛感情”はなく… 

人生を失い、それでも女は這い上がれるか

由香里

庭は、二つの家屋合わせた分の三倍近くあり、由香里たちの新居を建てようという話になった。副院長は「結婚して三、四年くらいは近くにマンションを借りてもいいんだよ。姑とその妹と同じ敷地内で一日過ごすのは君も疲れるだろう?」と聞いてきた。

「えっ?」と由香里は驚いた。「私は専業主婦になると思ってる?」。由香里は、働く母を間近にして育ち、女性も子どもを産んでも働き続けるものと考えていた。

少なくとも、子どもができるまではそれまでの仕事を続けるつもりだった。逆に副院長は、専業主婦の母の元で育った。同居している叔母も仕事をするわけでもなく、家事や子育てを手伝いながら家にいる。

女性は結婚したら、当然、家に入るものと思っていた。そんな大事なことをこの二人は恋愛時代に話してこなかったのか? 聞いていて恵子は驚いた。

結局、院長夫婦、叔母、副院長の有無をいわさぬ雰囲気に押され、由香里は結婚を機に専業主婦となった。新居が建つまでの間だけ、近所のマンションを借りて住んだ。まだマンションにいるころ、由香里は妊娠した。

その報告をしに、暖海の実家に行ったとき、逆に衝撃的な報告を受ける。母がステージ四の乳がんで、ほかの臓器にも転移しており、手術はするものの、余命はわずかだと聞かされたのである。

由香里は突っ伏して泣き叫んだ。「最高の母でしたから、その人がいなくなってしまうなんて考えたくもありませんでした」、由香里は涙声でそう語った。結局、母は孫の顔を見ることもなく逝ってしまった。由香里はいく日も泣き明かした。

やがて出産。女の子。由香里によく似て、それはそれはきれいな顔立ちの赤ちゃんだった。命名は姑がした。「ケイ」。将来、どこの国に行っても通用するから、という理由だった。

実は由香里は胸に秘めた名前があった。「桜子(さくらこ)」である。高校で所属していたダンス部で、発表会でコンビを組んで親しくなった先輩と卒業後も文通を続けていて、あるとき、彼女が本を送ってきてくれた。その題名である。

これまで読んだことのない作品世界で、電話交換の仕事をしている女性の話だった。普通に幸せに生きたいと願い、恋愛もする主人公は、過酷な仕事ゆえ病気になってしまう。

その病気を、職場の多くの仲間も発症して、みんなで力を合わせて職場と交渉したりしていく話、と由香里は語った。

「なんていうか、自分にはまねできないけど、すごく素敵な生き方だと思いました。自分のことだけでなく、仲間の幸せのことも考えて行動していく主人公にあこがれて……。それで、その名前、桜子と、女の子が産まれたらつけたいなあ、と……」。

だが、そういうことをうまく説明できる自信もなく、結局、「ケイ」を受け入れたそうだ。