「冗談よ。それで? もう茶化さないから説明して」

「防人の妻の歌よ」

「さきもり?」

「そう、万葉集に出てくる、あの防人」

「『父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる』って歌の作者の、あの防人のこと?」

「あら、よく知っているわね。他には?」

「知っているわけないでしょう、これ一つだけ。わたしの専攻は英文学よ、一つだけでも立派なもんでしょう」

「そうね。ところで、万葉集の中でも防人に関する歌は意外に多いのよ。大半が巻二十にあるんだけど、これがかなりの数なの。それでね、昨日の新聞に載っていた回文の記事を読んでいるうちに、どういうわけか万葉集の中の防人の歌の一つを思い出したの。なぜ防人の歌なのか、そして、なぜその歌なのか、いま思うと不思議な気もするけど、それは、

家風(いへかぜ)は日に日に吹けど我妹子(わぎもこ)が家事(いへごと)持ちて来る人もなし

という歌なの。それから連想がいろいろ広がっていってね、気がついたらさっきの回文ができていたの。その時は、回文を作っているという意識はなかったけど、結果的にそうなったというのが本当のところかしらね」

「回文の記事からどうして万葉集に行っちゃうのかよく分からないけど、それはともかくとして、二つの歌の感じはまったく違うように思うんだけど、その防人の歌とあなたの回文はどう結びつくのかしら」

「笑わない?」

「何を?」

「これから二つの歌の意味を説明するけど、笑っちゃだめよ。約束して」

「分かったわ、約束するから」

加奈子は、いつになく真剣な表情を浮かべる香織に応じて、神妙に香織の次の言葉を待った。

「万葉集の歌の作者は『朝夷郡(あさひなのこほり)の上丁(じやうちやう)丸子連大歳(まろこのむらじおほとし)』という人なんだけど、この〈朝夷郡〉というのは実はわたしの故郷の町の近くなの。もっとも、地元では〈アサイ〉って呼んでいるけどね」

「あなたの故郷って千葉県の南房総の……。ということは、作者の出身地は〈安房国(あわのくに)、朝夷郡(あさいぐん)〉というわけ? でも、防人は東国の人たちが多かったというから不思議ではないかもしれないわね」

加奈子はうろ覚えの知識を披露してみた。

 

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