「寂しさ」と地続きの「孤独」という言葉も、僕には1人でいる状態という意味でしかない。そこになにか感情的なものが付帯することは知っていても、その感情を僕は感じたことがなかった。

ただ、二十数年以上も前、30代の終わりに、孤独という感情を初めて知ることになる。当時、結婚の約束をした恋人がいたのだが、彼女が急にその約束を反故にして家を出ていったときは、なにがなんだかわからず途方に暮れた。誰も助けにならなかった。

その後、いまの心理カウンセラーに出会い、何十回ものセッションののち、「あなたは孤独だったのね」と言われたとき、僕は自分の錯綜する感情に言葉を与えられ、怒りは収まった。その意味では、僕は「孤独」という言葉を怒りの感情と共に理解しているといえるかもしれない。

これに加えて、「空虚」という言葉もわかる。この世のあらゆるものにはさまざまな感情を伴った記憶が付帯し、その温もりの中で人々は生きている。建物とか街並み、野山の自然などには生命があり、人々と共に生きているのだ。それに比べ、僕がいるここは整然としているけれども、寒々としている。ここには誰も住んでいない。

特に、23歳でうつ病になったとき、下宿の窓から見える街並みの生命がすべて消えてしまった。失って初めて、生命があったのだと気づいた。風景は、無味乾燥としたものとなり、なにか知らない街を眺めている感じがした。よそよそしかった。のちにわかったことだが、解離性障害というものらしい。