第四章 再び、東京へ
東京への引っ越し
父の誠一は、平日は本郷の下宿で暮らし、週末に土浦に帰ってくるという生活を八年ほど続けた。戦後の混乱期、東京から土浦への移動は大変であったことが容易に想像できる。
当時の常磐線は蒸気機関車で、ボックスシートは板製で硬く、窓を閉めていても煤(すす)が車内に入ってくると聞いた。
だから帰宅すると、鼻の掃除が必要になる。おまけに運航本数が少なく、車内はいつも非常に混んでいた。ただ、北千住の付近を通るときには「お化け煙突」が見えて、機関車が進むに連れて煙突の本数が四本から三本、一本と変わる。そんな車窓からの楽しみはあった。
親父が土浦から東京・本郷の勤め先に通うのが厳しいことを、周りも配慮したのであろう、東京の練馬区小竹町に借地し、新築の家を建てて、家族四人が一緒に暮らすことになった。
おふくろは、私と妹に、自分たちのことを「おとうちゃま」、「おかあちゃま」と呼ばせた。おふくろの「一家四人家族」のイメージであろうか。
私と妹は、「力行(りっこう)幼稚園」に通った。ブラジル移民の支援をする団体が運営する幼稚園で、クリスチャンの幼稚園だった。園内に畑があり、移民する人たちが寄宿舎生活をしていた。日曜学校で聖書の話を聞いたことを覚えている。
その頃の私は、よく熱を出したらしい。出席カードを見ると、「保育日数:二十三日、出席日数:十七日、欠席日数:六日」とあり、一ヶ月の四分の一は休んでいたことになる。
熱を出すと、胸にシップをべっとり貼られたことを思い出す。あまり気持ちの良いものではなかったが、熱を下げるためのおふくろの懸命の治療だったのだろう。近くの小児科へよく行ったことも、記憶にうっすらと残っている。
大きくなってから、「お前は小さいころよく熱を出して、手がかかった」とおふくろから聞いたことがある。「癪に障ったのは、お客さんが来て話がはずんでいると、きまって泣き出す。添い寝をして寝たかなと思い、来客と話をし始めるとまた泣き出す。何度も繰り返すうちに私が寝ちゃった」と。
こんな話も聞いた。ある日、幼稚園から電話があり、「お宅の子どもさんが声をかけても反応をしなくなった。迎えに来てくれませんか?」と先生が言う。おふくろが幼稚園に行くと、お漏らしをしていて、お尻にべっとりうんちがついていたそうだ。
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