〈附記1〉
チマのメモにより慈幻善孩兒の存在が判明しました。チマがこの児を知っているということは、母セキが教えていた可能性があります。そうだとすると、セキが産んだと言っている9人の中に含める必要があるかもしれません。そうならば夭死した3人とは、慈幻善孩兒、長女ヤヘ、 5男多志喜の3人ということになります。この場合は多喜郎は夭死の基準から外れます。
そして実際に産んだのは10人ということになります。セキが「9人の子供を産んだ」と言っている以上、誰か1人外す必要があります。そうなると外す候補は末治でしょう。
末治との別れは悲しい記憶なので、初めからいなかったものとして、9人を産んだ……と言っているのかもしれません。どちらにしても、話に矛盾が生じてしまう時は、大概の場合はどこかに隠された事象があるからと言えます。
〈附記2〉
除籍謄本によると佐藤藤右衛門は下川沿村川口103番地に住んでいます。末松・セキ一家は12 下川沿村川口17番地でした。タイトル不明の新聞形式の記事にも「当時近くに住んでいた」とあります。本文に記した仮説を組み立てる前のことですが、佐藤藤右衛門や末治について日景健氏に質問したことがありました。すると忙しい中で調べていただけました。
日景健氏については第4章で紹介します。以下は明治5年頃の記録ということなので、第4章で示す資料と出典が共通かもしれません。日景健氏によると佐藤東右衛門なる人物がいるそうです。「東」と「藤」が異なりますが、太治右衛門と多治右衛門の例があります。これも第4章で触れます。
この東右衛門の妻はサン、長男の三八および妻(名前不明)と2男の東助がいます。この佐藤東右衛門は佐藤兵助の別家のようです。佐藤兵助については、この後および第4章で触れます。全員ではないですが、それぞれの生年月日は次のごとくです。
東右衛門:文化10年(1813)8月3日、新暦:1813年8月28日
サン:文化8年(1811)3月5日、新暦:1811年4月27日
三八:天保9年(1838)4月7日、新暦:1838年4月30日
末治が生まれたのは明治39年(1906)3月3日なので、その時の年齢は東右衛門が満92歳 6ヶ月、妻サンが満94歳10ヶ月、長男三八が満67歳10ヶ月です。
さらに末治が結婚したのは昭和 3年(1928)7月10日なので、東右衛門が満114歳10ヶ月、妻サンが満117歳2ヶ月、長男三八が満90歳2ヶ月ということになります。これらの年齢を額面通りに受け取ると、私の仮説の信憑性が揺らぎます。
1 荻野富士夫『小林多喜二の手紙』 岩波書店 2009年
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