【前回の記事を読む】学校を休んでも心は休まらなかった。焦りから大声で喚きたくなることもあった…。しかし、爺ちゃんの話を聞いたことで…
二 清水の爺ちゃん高校の先生になる
正夫は、東北地方の南北を脊梁(せきりょう)のように走る奥羽 (おうう)山脈(さんみゃく)の麓(ふもと)にある寒村(かんそん)、東田村(ひがしたむら)に一人っ子として生まれた。両親は隣町 (となりまち)にある吉山銅鉱山(よしやまどうこうざん)に勤めていた。
父の佐々木洋一(ささきよういち)は銅鉱山(どうこうざん)の坑夫(こうふ)であり、母の良子(よしこ)は掘った銅鉱石(どうこうせき)を選別(せんべつ)する選鉱場(せんこうじょう)で選鉱(せんこう)の仕事をしていた。
当時、我が国は高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)をまっしぐらに歩み、銅鉱石はいくら掘っても足りなかった。明治期に開発された吉山鉱山は、とても質の良い銅鉱石が採掘(さいくつ)された。
正夫の父は、地元の東田村の中学を卒業すると吉山鉱山の雑役坑夫(ざつえきこうふ)として働いた。つまり坑夫(こうふ)見習(みなら)いである。
経済的(けいざいてき)に余裕(よゆう)のない東田村では、吉山鉱山の抗夫は給料も高く、ある意味でのエリートであった。でも、落盤事故(らくばんじこ)の危険(きけん)や、鉱石を掘る時に出る粉塵(ふんじん)を吸い込むことで肺(はい)の組織(そしき)が侵(おか)される恐ろしい「塵肺症(じんぱいしょう)」になる危険と隣(とな)り合(あ)わせの仕事であった。
先輩坑夫(せんぱいこうふ)たちの使う削岩機(さくがんき)・鏨(たがね)・金槌(かなづち)・玄翁(げんのう)・鶴嘴(つるはし)・ヘルメット・カンテラ・スコップなどの各道具(かくどうぐ)の管理(かんり)や、残土(ざんど)の片(かた)づけを主とした仕事だった。
その合間(あいま)に鉱石を掘削(くっさく)する各道具の使い方や具体的 (ぐたいてき)な採掘方法(さいくつほうほう)を教わった。ビクついたのは発破 (はっぱ)と呼ばれる岩石(がんせき)を打ち砕(くだ)くダイナマイトの仕掛(しか)けだった。