はじめに

私の故郷は、秋田県「東成瀬村(ひがしなるせむら)」である。

戦後の焼け野原で喘(あえ)いでいる我が国では「生きてゆく」ことが精一杯(せいいっぱい)だった。一部の階層(かいそう)を除(のぞ)けば、「産めよ殖(ふ)やせよ」の政策(せいさく)の下で置き去りにされた子供たちに対して、勉強によっても将来の展望(てんぼう)を開くことができる、と考える指導者は、少なかったものと実感している。

今の東成瀬村は、我が国有数の教育村として知られているが、当時の東成瀬村では、学校の先生方のお子さんを除けば、私自身はもちろん、私の同級生一クラス54人、二クラス計108人の子供たちは全く勉強などしていなかった。

ただ、全く勉強しなかった私だったが、何ゆえか「活字(かつじ)」に飢(う)えていた。

八人兄弟姉妹で自分の本などあるはずもなかったが、家で取っていた農業雑誌や新聞を細部にわたって読み、その延長で家にある僅(わず)かな本をむさぼり読んだ。中学に入り、さらに読書好きが高(こう)じた。

国語の先生は、盛んに「作文」指導をしてくださった。そこでは予想外に、毎回、私の書いた作文を、大いに恥ずかしくなるほど褒(ほ)めてくださった。私は、単純(たんじゅん)にも、将来は小説を書いてみたいと思うようになった。

また、社会科の先生は私の読書によって培(つちか)われた多方面の知識を「社会科の神様」と評してくださった。

これらの評価は、私に対して将来の道筋(みちすじ)を左右するほどの望外(ぼうがい)の褒め言葉になった。

私は苦学(くがく)をして私大を卒業し、開成中(かいせいちゅう)や桜蔭中(おういんちゅう)などいわゆる「男女御三家校(だんじょごさんけこう)」に大量合格させる有名塾の「社会科教師」となり、社会科の受験参考書まで出版させていただいた。以来、四十数年間、受験指導に全力を尽くしてきた。

受験指導を通じて、素質(そしつ)・環境(かんきょう)・意欲(いよく)など様々な条件の異なる子供たちに出会った。しかし、どのような条件下にあろうとも、どの子供たちも、一様に自分の存在そのものが、大いに認められ評価(ひょうか)されることによって、驚くほど前向きになり学力や人格が共に成長してゆくことを体験した。保護者や指導に当たっている私たちでさえ驚かされた。