第一章 注射にしますか、お薬にしますか?

毒魚に珍味あり、オコゼ、ゴンズイ、フグ、アイゴ​

オイラが大阪の地銀にいる頃、得意先に三〇人ほどの機械メーカーがあった。社長の甥が専務で、総務に小太りの西尾(仮名)がいた。三人は誘い合わせてよく釣りに行った。

その日三重県・尾鷲湾でチヌの夜釣りをしていた。港からちょっと出たところ にスズメとか軍艦と呼ばれる人気の磯がある。過去にも大釣りの実績があり、三人は意気込んでいた。

夜の九時近く、オイラと専務で何とか四〇センチ程のチヌを三匹仕留めたが、その夜はどうも不漁の兆候(ちょうこう)だった。それでも何カ所かのポイントを交代しながら釣りを続けていたところ、

突然!「ウギャー」か「ウアー」か、悲鳴が聞こえた。西尾の声だ。大魚を掛けて、応援を頼む声ではない。

「どーした」専務が振り向いて怒鳴る。
「フアー」と返事が弱々しい。

ヘッドライトを点け、岩を越えて行く専務が見える。オイラも竿を置き、おっとり刀で向かった。

西尾が磯の上で芋虫のように腰を曲げて俯(うつむ)き、尻を押さえている。

「西尾! ……どうした?」
「ヒー、ヒターイ、尻が!」
「ケツか?」
「ファ~イ」
「ケツのどこや」
「穴の辺でフ~、ムー……」

「そこの岩の上へ座ったら! ズコーと、フアーッ、ヒターイ」
「出してみい、見なきゃ分からんゾ」ズボンを下ろしてケツをまくる。

ケツの穴をヘッドライトで照らす、闇夜に白く丸い尻の真ん中に、すぼめた穴が見える、皺(しわ)のある一点に赤い血の色が見えた。

西尾が指さした岩の隅に、赤いものが……よく見ると六センチほどの「ヒメオコゼ」だ。

小さなオコゼが目玉ひん剥(む)き、背びれを立ててつぶれている。
ヒメオコゼの背びれには強い毒があるのだ。
西尾はその上に座り、背びれがズボンを突き抜けて、ケツの穴に命中したことが分かった。

敏感なアナ付近にオコゼの背びれが刺さっては堪らん。
オイラは経験がないが、オコゼに指を刺された人を見たことがある。

大の男が痛さで四時間ほども悶絶(もんぜつ)していた。

西尾が今いる場所は、先ほどまで、専務が釣っていたところだ。夏場、釣果の悪い時に限って「ヒメオコゼ」が釣れる。専務はソレを釣り、後ろの海へ放り投げたが、岩山を越えず、岩壁に当たって、手前に転がり落ちていたのだろう。

知らない西尾がオコゼの真上に座ったに違いない。
潰(つぶ)れたソレを専務にちらりと見せたら、大目を開けて頷(うなず)いた。

西尾があまりに痛がるので、ケツの穴にオロナ●ンを塗って上からばんそうこうを貼(は)り付けた。冷やりとして気持ちよかったのか、しばらく大人しくしていたが、再び痛がり出す。同じところにじっとしていないのだ。そこら中を歩き回る、聞けば痛くてじっとしていられないという。

「それほど痛いか?」
「ヒターイ、ヒターイ」

湿布を持っているのを思い出した。

ばんそうこうを剥(は)がして、半分に切った湿布を尻溝に沿って貼り付けた。面倒だから溝の両側にも一枚ずつ貼った。

「西尾! しばらく、屁(へ)こいたらアカンゾ、剥(は)がれるからナ」
「フア~イ」よほど痛いのだろう、素直な返事だ。

湿布を貼ったケツのまま、彼は比較的平らな岩場に横たわったり、立ったり、座ったり、動き回ったり。結局西尾はその夜、釣りはできなかったのである。

後日、西尾から直に聞いた話。

「ケツの穴に刺さったんやで、痛いなんてもんじゃないヨ……」
「オレ半身不随になると真剣に思ったんやから……」

オイラをにらみつけて話す西尾の目は据わっていた。

「この痛さは絶対に刑罰にするべきだ」
「泥棒には指の先に、詐欺師には唇へ」
「婦女暴行にはナニの先へ、恐喝には唇とケツに……アノ毒は絶対効く、間違いない」

そう言い切った、彼の話には、迫真の響きがあった。

西尾の話を聞くまでもなく、尻の穴は超敏感帯なのである。