第一章 注射にしますか、お薬にしますか?
ドクター朕茂ちゃん誕生秘話
兵庫県の西部から山口県にかけて、中国山脈が走っている。
山脈と言っても高いところでせいぜい千メートルほどのなだらかな山の連なりで、近年は中国山地という言葉の方がよく使われている。オイラはその中腹にある海抜五〇〇メートルほどの高原の盆地で育った。
そこは米作のほか、葉タバコやコンニャクイモなどを栽培していたが、冬になると雪が三〇センチも積もり、山仕事の他には道路工事などの土方仕事しかない寒村だった。
盆地の長径は五キロ余り、幅は五百メートルほどで細長く、その真ん中を一本 の川が流れていた。
盆地を取り巻く山々は低く、谷々の奥にはため池があった。
真ん中を流れる川を土地の人は大川と呼んだが、川幅は広いところでも八メートル足らずで、地図で見ると、岡山県の倉敷市に流れ込む高梁川の支流、小田川の上流に位置していた。
オイラはこの川で釣りを覚えた。多分小学校二年生の頃だったと思うが、定かでない。
六人兄弟の末っ子だったオイラは、両親が仕事で忙しいため、ほとんど祖母に育てられた。
時七〇代半ばを過ぎていた祖母は、五〇歳の頃「そこひ(緑内障)」を患い視力を失っていたが、二〇年以上の全盲生活で、大抵のことは自分でできる賢い人だった。
オイラが学校から帰ると、縫い糸に針を五本通させた。遊びに行っている間に、針五本分の縫物をするためだ。
布の大きさを手で触ると着物のどこの部分か分かるらしく、母が洗い張りした布で着物をきちんと縫い上げていた。そればかりか、台所仕事は無論のこと、美味しい散らし寿司まで作る器用な人だった。
海辺で生まれた祖母は、魚がめっぽう好きだった。昭和二〇年代の後半で、魚を十分に買って食える経済状態ではなかったから、「魚を釣って来い」と言ってはオイラに小銭をくれた。釣った魚は煮魚にし、自分一人で食べていた。一〇センチか一五センチの野ブナから、ハヤ、アブラハヤ等、他の者は誰も手を付けない川魚を喜んで食べていたのである。
それから三年後の初夏、大雨が降り、増水した大川の曲淵(まがりぶち)で、オイラが三〇センチ余りの鯉(こい)を釣って来た。祖母はその頃患(わずら)っていて、母が作った「鯉こく」(鯉の味噌汁)の汁だけを少し飲んだ。
それから五日後の朝、夜を徹して母と共に看病していた姉から「昨夜おばあさんが亡くなった」と聞かされた。オイラが小学五年生の六月のことだった。