背中に触れた女性たちを徹は心からは必要としなかった。必要としない者に心を通わすことをしなかった徹は、彼女たちから見れば冷淡な人間に映っただろう。徹はそれでいいと思った。だが今、徹は心から夏海を愛おしく感じ、片時も離れたくない、と思っている。
夏海に背を向け静かに過ぎる時間の中で父や母のことが一瞬脳裏をよぎった。あの人たちはどうしているのだろう、だが今はこのまま夏海を守りながら生きていきたい。
できることなら背中の森の中に二人で逃げ込みひっそりと暮らしたい。そう思わせるほど徹の背中の森は深く静かに佇んでいた。
どれ程の月日が二人の間で流れたのだろう。ある時はドブのような臭いを発する川が流れ、ある時は川底の砂が数えられるほどの透明感が溢れる川が流れ、どんな流れも二人を引き裂くことはできなかった。
二人は手を繫いで歩いていた。もうすぐ梅雨に入る季節、不安定な天候の中、夏海と徹は坂道を登っていた。
「大丈夫、疲れてない?」
徹の声はいつも優しく夏海を覆う。徹はどこへ行くにも夏海を連れて行った。一人にして自傷行為に及んだら取り返しがつかない。
大学の授業は午前中中心に組みなおした。夏海が睡眠薬を服用して眠っている間に用事を済ませる、ということを思いついた時は、少し気持ちが楽になった。
毎日決められた薬を飲ませ、週に一度精神科に夏海を連れて行っている。精神科の光景にももう慣れた。相手は徹や夏海のことがわからずとも、正常な精神の徹には、顔ぶれがいつも同じだと次第にわかってきた。
ブツブツと独り言を言っている男性は、毎回見かけるが、いつも同じことを愚痴のように言っている。待合ホールに備え付けられている小型のテレビに天気予報が映し出されると「う~ん、明日は晴れになる、晴れになる」と、そればかりを怒った調子で口ずさんでいる。
大きなリュックの中に鍋や茶碗を押し込み、まるで夜逃げでもしてきたような中年の男性は、毎回診察券が見当たらず、リュックの中のものをフロアに取り出し並べている。
次回更新は1月19日(月)、21時の予定です。
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