【前回の記事を読む】ある日コンビニから戻ると「きゃぁー」と叫び声がして…彼女は自分の腕を包丁で切り刻んでいた。
言葉のサラダ
主治医は「ちゃんと薬を服用し、心穏やかに過ごしてください」と言うだけで他には何も言わなかった。徹は全てを投げ出したい思いをじっと堪え、細くなってしまった夏海の身体を抱きしめた。すると、突然夏海が声を発した。
「向こう、雲」
また言葉のサラダが深いボウルに盛られ差し出された。
「あ、雲の隙間から光が見えるね。綺麗だってこと?」
夏海は的を射た徹の言葉に満面の笑顔で答えた。長くも短くもない時間を共に過ごし、徹は夏海の心が少し見えるようになった。
それは、徹にとって喜ばしい事だった。三十歳という年の差が、砂時計からこぼれた砂で埋まっていく。
「綺麗、森」最近夏海がよく口にする言葉だ。この言葉がサラダボウルに盛られた時、徹はシャツを脱ぎ背中を夏海に見せるのだった。
徹の背中には綺麗な絵画のような森が濃淡を交え彫られている。背中に彫りものをする人間は、龍など他人が見て恐れを感じるものを入れる。だが、徹のそれは全く真逆のものだった。
まるでモネの『睡蓮(すいれん)』のように、見る者を背中の世界に引きずり込んだ。上等なキャンバスのような徹の肌は白く静かで、背中の彫りものをより一層綺麗な生き物に見せた。徹はこれを彫り上げるまでに三年を費やした。一色彫だが綺麗に濃淡を使い遠近感を醸し出している。
「これって日本人が彫ったの?」と夏海は初めて見た時驚嘆の声を発した。そんなあの頃が懐かしかった。その頃のことは覚えているのか、その背中を見せると、夏海は音も立てずに頰をすり寄せるのだった。
温かい、と徹は初めて感じた。夏海の頰が自分の背中に触れると、なんとも言えない温かさが背中の中心から脇へと伝わった。今まで幾人かの女性がこの絵に触れたのに、一度も夏海に感じたような温かさは感じなかった。
どうしてこの人が触れると温かさを感じるのだろう。ゲームのような恋愛を繰り返してきた徹には、そのわけがわからなかった。