【前回の記事を読む】夫からの“あるメール”をきっかけに…食事を摂れなくなり、起き上がる気力がなくなった。頬はこけ、老婆のような見た目に。

言葉のサラダ

徹は一度だけ母を守るため父を殴ったことがあった。高校生の徹の拳(こぶし)は固く強かった。殴られた父は薄ら笑いを浮かべ、口角に滲んだ紅の血を舐めていた。

もしかしたら、夏海の父親も暴力を振るう人だったのか。それとも紅葉の赤が、夏海の記憶のどこかを刺激して「血」を連想させたのだろうか。

徹は自分の腕に鼻先を当ててみた。夏海が言うように皮膚の向こう側の血の匂いが嗅げるかもしれないと思った。だが徹の鼻先をかすめたのは、昨夜風呂上がりに塗ったローションの香りだけだった。

どんな匂いでも、どんな色でも構わない。夏海と同じものがこの身体の中に存在するのなら、と徹は自分なりに答えを出した。

元気だった頃の夏海になら「同じ血の匂い」の意味が聞けたのに、と思いながら徹はコンビニへ買い出しに行った。何でもいいから夏海の口に入れなければこの人は死んでしまう、そう思ったからだ。

食事を摂らせ風呂に入れベッドに横たわらせ徹の一日が終わる。夏海は幼女のように無邪気な顔を見せる瞬間と、時空を彷徨(さまよ)っている蠟(ろう)人形のような顔を見せる時がある。何がこの人をそうさせたのか、少しの好奇心と少しの哀れみが徹の中で交差した。

ぼくはこの人に一体何がしてあげられるのか。最近、徹の頭の中ではこの言葉が渦巻いている。自分より三十年も多く時間を過ごしてきた人間に、まだ社会にも出ていない自分が何をしてあげられるというのだろう。

渦巻く言葉たちは、時として徹を苦しめた。時々、二人して外出すると、周りは親子として徹たちを見た。

夏海が元気な頃は、ケラケラとお互いに笑い飛ばしていたが、その視線も今では徹を苦しめていた。徹の夏海に対する思いは、家族に見捨てられて可哀想、という安易な同情ではなかった。二人にしかわからない何かが、強力にお互いを引き寄せていた。

夏海が精神に疾患を抱えているとわかったのはつい最近であった。信頼の置ける精神科へ夏海を連れて行き、家族のふりを装い主治医と話をした。

百人に一人の割合で発症する精神疾患だと医師は言った。症状には二通りあると医師は教えてくれた。

誇大妄想にかられ、自分を神化し周りの者を愚かだと信じ込み、ひどい時には相手構わず殺傷(さっしょう)に及んでしまう陽性症状と、自分はダメな人間だと思い込み、行動や思考が停滞してしまう陰性症状だ。

夏海の症状は陰性のものであった。正常な人はこなせる自身の身の回りのことが夏海にはできない。また、「言葉のサラダ」と精神医学用語でもある症状で、夏海は自身の思いを文章にすることができなくなっていた。

要するに「私」「ダメ」「違う」こんな単語だけが飛び交う会話を、徹は幾度となく耳にし、その都度夏海の頭の中に入り込み、駆け巡り答えを見つけ出す、という作業をしなければならなかった。