【前回の記事を読む】四大公害訴訟(水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市ゼンソク)の生じた時代。技術に対して批判的な目が向けられたが…
第1章 筆者の経歴
4 横浜国立大学経営学部第Ⅱ部と経済研究所での貴重な体験
(1)横浜国立大学経営学部第Ⅱ部に学士入学
同学部は、夜間教育の場であったが、筆者は、旭硝子在職中の1973年に、そこに学士入学した。これについて、当時、四大公害訴訟等、我が国の昭和30年代からの高度成長時代の技術の進歩の反面としての負の面が表れた時代であったことが大きく関係している。
筆者は、技術を社会に役立てるについて、もっと社会について知りたいと思った。そして、勤務場所が横浜市であったので終業後通学するにも便利と思ったからである。
現在では「生涯教育」「社会人教育」などというが、当時、会社では、(工業)高校卒の従業員が夜間大学に入学することは好意的に見られたが、いったん大学(院)を卒業した者がまた大学に入学することには懐疑的であった。
「あいつは何を考えているのだろう」というわけである。また、そういうことをする人間も皆無であった。
そうした中で、横浜国大経営学部では多くのことを学んだ。筆者は近代経済学のゼミに入った。筆者は、工学部出身であったが、数学が特に得意というわけではなかった。
しかし、線形数学(行列など)と線形の2階の微分方程式の運用程度には支障がなかった。近代経済学の中の数理経済部分を学ぶにもその基本は、この程度で足りた。
すなわち、ミクロ経済学の中心となる均衡論の価格理論は、数学的には線形数学で足り、マクロ経済学の中心となる景気循環論は数学的には線形2階微分方程式程度で足りた。
これは、筆者が当時、アメリカの経済学部の修士課程程度といわれる教科書の練習問題をすべて解けたところからもあたっていると思う。
しかし、横浜国大ではこれに終わらなかった。マックス・ウェーバーの研究を専門としていた楠井敏朗教授からは、経済史、金融論を受講したが、当時の経済・社会情勢を題材にした、経済・社会の見方について、議論に付き合っていただいて、特に多くのことを学んだ。
これに関し、カール・マルクスの『資本論』の副題は「経済学批判」である。つまり、アダム・スミス以後の貨幣の循環を中心とした市場経済(下部構造)についての経済学の批判である。
この下部構造を人間の社会的活動(階級構造)の理論的考察である政治・法律・宗教・文化等(上部構造)と切り離してはいけない、とする。