バブルが弾けた影響はどの会社も同じで、紫衣の勤めていた塗料メーカーも人員削減を行うようになってきた。
紫衣がラッキーだったのは、両親が亡くなって土地を売ったとき、バブルの時代にもかかわらず何もせずに預金を銀行に置いておいたことだ。
何かしらアクションした人は必ず傷を負っていたから。
逆にバブルが弾けて土地の値段が暴落した。
それを見計らって紫衣は鎌倉の古い一軒家を買ったのである。土地だけで建物の価値はないその家は、紫衣から見たらとても魅力的なものであった。
塗料メーカーが退職金を多めに出し、希望退職者を募っていたので、紫衣は迷わず退職した。
父の望んでいた青のガラスはマインツの聖シュテファン教会で見られた。
今辞めたら、妊娠していることを誰にも悟られない。調色師として、家で出来ることもあるはずだ。
幸い、勤めていた時に無駄遣いしなかったので蓄えも少しはある。
優秀な社員だったので辞める時に惜しまれたが、どんなに優秀でも会社には代わりの人は必ずいる。
私でなくてもいいのだ、そう思いながら、円満に退社した。
退社してからお茶の水の病院に向かった。
内科を訪ねて「南部先生はいらっしゃいますか?」と聞いた。
紫衣のことを覚えていた婦長の田上さんは「あっ」と声をあげて「南部先生は亡くなられたんです」と紫衣に伝えた。
「え?」何を言われているのかわからなかった。
「どうしてですか?」
それに対する答えはなかった。
先生にお焼香もしたいし、私は南部先生のご長男に連絡したいことがあるので、先生のご住所を教えていただけますか?
そう伝えた紫衣に、田上婦長は迷いながら「いらっしゃるかどうかわかりませんが」と言いながら、住所を書いた紙を渡してくれた。
その住所を訪ねて行くと、そこは平地になっており、「三楽ホーム」と書かれている看板が立っていた。
どうしよう、真亜にもう会えないかもしれない、紫衣は三楽ホームの電話番号を控えてその土地を後にした。
三楽ホームに電話しても、売り主は南部さんではなく不動産会社でしたと言われ、それ以上は教えてくれなかった。
真亜の勤めていたはずの製薬会社も名前が変わり、真亜はすでに在籍していなかった。
紫衣は、人を恨んだ罰だ、と鎌倉の海を見ながら一人佇んだ。
紫衣は産んだ女の子を詩麻(しま)と名付けた。