【前回の記事を読む】引っ越し先は駅から遠いし、スーパーも遠く、下の階には変なおばさんが住んでいる。いいのは前より家賃が安いことだが…

夜空の向日葵

その夜、「実験費用が授業料と別枠で請求があって、今月一万円ほど足りなくなりそう、ごめん母さん」というメールが息子から入った。この前まで、この手のメールに戦々恐々としていたけれど、今月からはなんとか対処できそうだった。引き出しから、息子の口座に入れるために一万円を取り出すと、冷蔵庫から冷えたジュースの缶を取り出して飲んだ。

その時、かたっと音がした。その物音は、どうやら例の部屋の方向からのようだ。こわごわリビングを出て、その部屋の前まで行き、それからやっぱりリビングに戻って、リビングと廊下のガラス戸をぴたりと閉じた。

結局、例のタッパーの中に何かを詰めて返すことはせず、オレンジジュースの缶を三つ、タッパーと一緒にビニールの手提げ袋に入れて返すことにした。日曜日の朝、駅前に買い物に行くついでに、その手提げ袋と買い物用のエコバッグを提げて、私は二〇二号室の前に立った。

今日はまだゴミの日でもないのに、小さな袋が一つ、すでに扉の前に置かれていて、やはり袋から水が漏れている。周囲の廊下は茶色っぽく変色していて、まだこの季節だからいいものの、真夏を迎えたらどうなるのかと思うと毎日通らなければならない私は気が重かった。

ドアの向こうの気配を伺ったけれど、何の物音もしない。もしかしたらまだ寝ているのかも知れない。チャイムを鳴らすのがうっとうしくなった私は、手提げ袋を入り口の前に置いた。立ち去ろうとしたその時、ぎーっと後ろで戸が開く音がして、不知火さんが顔をぬっと顔を出した。

「ちょっと、あんた。戸口になんか置いただろう。戸が開けにくいったらありゃしないよ」

「すみません。先日、キュウリの漬物いただいたお礼をと思って。まだ眠っておられたら悪いと思って置かせていただいたんです」

何だい、とぶつぶつ言いながら、不知火さんは、手提げ袋をのぞいた。

「ああ、ジュース。甘いもんは血糖値が高くてあんまり飲めないんだよ。一つでいいよ」 

よいしょ、と腰を屈めて扉につっかけの片方をひっかけると、また違うつっかけでドアの外に出てきて、私が買い物用に腕に下げていたエコバッグの中にジュースを二缶入れた。

「これから買い物かい?」

「ええ。ちょっと駅前まで」

「いいねえ、若い人は気軽に買い物に行けて。あたしなんか、行くのは大仕事だよ」

はあ、と曖昧に返事をして階段を下りようとすると、

「ちょっとここで待ってて」

不知火さんはそう言って、よっこいしょとドアを開けると中に入ってしまった。