時計は九時半を指していて、ここから駅前まで三十分はかかるから、今から走れば日曜日朝十時の卵の特売に間に合う。でも、不知火さんはなかなか出てこなかった。
どこかでケキョケキョ、とうぐいすの鳴くような声がした。下をのぞくと、木の横で黒猫がぬーっとのびをしている。あの猫は首輪をしていつもこの辺を歩いているから多分、動物禁止のこの団地の誰かが飼っているのだろうと思われた。
エコバッグに不知火さんが返したジュースの缶の重みが、腕に軽い跡をつけた。不知火さんはまだ出てこない。買い物には重いから缶を家に置いてこようと思ったところで、ドアが開いた。
「探してたら時間かかっちゃってねえ」
はいこれ、と手渡されたのは、切り取ったクーポン券のようなものだ。
「火曜日に買い物すると、十枚で卵ひとケースもらえる券。長いことかかってためたんだけど、なかなか駅前まで行けないし期限がやってくるからあんたにあげるよ」
「いいんですか?」
「もちろんだよ」
落胆喜び半分、不知火さん、そこまで悪い人じゃないかも、と思いながら、すみませんといって受け取って行こうとすると、
「それからさ、駅の踏切わたってすぐのところに酒屋があるだろ。そこの角を左に曲がってまた右に入ると、八百屋があるの知ってるかい?」
と、声をかけられた。
立ち止まってうーんと考える様子をした私に、不知火さんが勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「そうか、知らないのかい。そこ、野菜が安いんだよ。いつだか、レタスふた玉で五十円」
「すごく安いですね」
「だろ」
「今日、さっそく行ってみます」
「じゃあ、お願い。キャベツ買ってきてくれないかい? お金は、ちゃんと後で払うからさ」
「キャベツ、ですか」
このごろ出回っているのは、大きくてかさばる春キャベツだろう。重たいし、この坂をキャベツを下げて上ってこなきゃならないなんてと、うんざりしたところで、
「小さいのでいいから。なんなら、半分でもいいよ。あさってさ、息子がやってくるから、どうしてもそのときロールキャベツ、食べさせてやりたくてね」
と、不知火さんがたたみかけた。ロールキャベツを作るなら、大きな葉が必要だから半分といわれてもひと玉買わざるを得ない。息子がいるなら、息子に頼めばいいのに、と思いながら、あいまいにうなずいた。
次回更新は1月4日(日)、11時の予定です。
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